恋しいのは昨日の君 2 




 恋人たちや十代の若者ばかりの客層のカフェで、二十歳過ぎの青年が窓際の真ん中辺りの席に、独りで座っていた。
 正午。腕の時計をちらりと見た。来店したときに出されたグラスの水を、少しだけ口に含む。
「豊橋正大さんですか、」
 背後から男の声がして、青年は驚いて振り向いた。
 其処には、中学生くらいの年頃に見える、少し小柄な少年が立っていた。
「……ということは、君が……」
「チカです」
 惚けている正大とは対照に、落ち着いた様子でチカは彼の向かいに座った。
 窓から反射する陽の光で、少年の切り損ねたような半端な長さの髪は、黒い部分と栗色の部分が斑になっている事が目立った。髪の隙間から覗く両耳には、それぞれに対でないピアスが留まっている。少しオーバーサイズのジーパンに、日本語のロゴの入ったT-シャツ姿の彼は、当然のように手ぶらだった。
「驚いたよ。チカ、と云うから女の子だと思っていた。それに、こんな大きな子供だとは思ってなかったからね」
 二人分の軽食と珈琲を注文し終えた正大は、チカに向き直って云った。
 向かいに座る少年は、無言でウエイトレスの運んできた珈琲を啜った。
「今日、学校は創立記念日かなんか、」
「俺は学生じゃないですよ」
 チカが、ゆっくりとした調子の声で、正大の言葉を遮った。正大は「そ、そう」と一言口にして、視線を宙に泳がせる。
「仕事の依頼じゃないっスね」
 チカが、運ばれてきたばかりのパスタにタバスコを振り掛ける。
「……まぁ、そうなんだ」
 正大はバツの悪い声を出した。
「何の用スか」
 チカがパスタを口に運びながら顔を上げた。正大と眼が合う。チカは、何気ない表情で淡々と質問をして、口を動かしていた。
 正大はやっと来たサンドウィッチに視線を落として、再度顔を上げて云った。
「チカ君がトモシゲさんの子供だって聞いてさ。何だか突然、会っておきたくなったんだ」
「……それは、俺じゃなくて、トモシゲに、」
「多分、そうだな」
 答えてから正大は、そうだったんだ、と自分のしたかったことに気づいた。
 シャッターの落書きの端に記してあった、C-h-i-c-a という印を見て、思わずその人物に会いたくなった。その時点では、彼はChicaが誰かという見当が着いていた。見当、というよりは、そうであって欲しいと云う、期待、の方が大きかった。
 それから、落書きの人物はその人ではないか、と商店の関係者に尋ね廻っていると、どうもChica本人は別人らしいが、その親だと名乗っていた人物の特徴と一致することが判ったのだ。
「中学時代のクラスメイトさ。特別仲が良かったわけじゃないけど、二人で卒業アルバムのデザイン係をしたことを覚えている」
 正大は穏やかな表情になって云った。
「でも、卒業してからは一度も会わなかったな。高校が離れた所為もあるし、連絡取り合うほど親しくもなかったし」
 云いながら、正大は一口だけサンドウィッチを噛った。向かいに座る少年は、聞いているのか否か、ただ黙々とパスタを口に運んでいる。正大はそれをチラリと眺めて、すぐにまた、慌てて口を動かした。
「でも、本当に吃驚したよ。この歳でもう結婚してて、チカ君のような歳の近い息子を持ってるなんて。……彼女、元気してる、」
 所々、笑いながら話す正大を、チカはパスタを口に入れる手を休めること無く見ていた。正大の笑いには、僅かに自嘲の要素が含まれているように感じられた。
 食べかけのサンドウィッチを皿に置いた正大は、小さく息を吐いた。
 彼の向かいの席では、きれいに皿の中身を空にした少年がフォークを置いた。
「勘違いしてるみたいだから、一言云っておくけど。俺は結婚相手の連れ子じゃないっスよ」
「は、」
 惚けている正大に、チカは淡々と云う。
「だから、智重さんは別に結婚したわけじゃないっス」
 チカが、トモシゲ、ではなく、智重さん、と発音し直した。
「はぁ……」
 よく判らないまま、とりあえず返事を返した正大の目の前で、チカは普段通りの表情で座っている。そんな少年を、正大は暫く眺めていた。
 チカは、正大を一瞥した後、ぬるくなってきた珈琲を一口啜った。
「豊橋さんって、洞成町の落書きを見たんスよね」
 突然話題を変えたチカに戸惑いながらも、正大が頷く。
「何で、なんスか」
 チカが、曖昧に言葉を伏せて訊いた。
 一瞬、正大は何のことだか判らなかったが「ああ……」と思い出して口を開いた。
「初めて見るタイプの絵だったよ。筆遣いも、外観も、彼女のものとは全く違っていた。……けど。何か、同じ型というか、……うまく云えないけど、」
 言葉を切る。少し考えてから、継ぎ足した。
「同じ次元を共有している絵を描いているって、感じたんだ」
 チカは何も云わずに、正大を見ていた。
 押し黙っている少年を見ていて、正大は一つの可能性を思いついた。
「チカ君は、トモシゲに絵を習っていたんだろ」
 師弟、の関係を、正大が尋ねた商店の人たちは、親子、と呼んだのかも知れない。否、元々そうだったのを、正大自身が早とちりして勘違いしていたのだろう、と彼は考えた。
 しかし少年は、すぐに返答した。
「無いっスよ。一度も」
「じゃあ、親子の遺伝かな」
 正大は、わざとそう云った。そして、もう一言、付け加えた。
「君の絵には、人を引きつける何かがあるよ。でも、」
 一息置いて、目の前で平然としている少年を正面から見る。
「僕は、トモシゲさんの絵の方が好きだな」
「そうですか」
 チカは、相変わらず淡々とした口調で応えた。特に、感情に変化のあった表情もしていない。
 正大はチカから視線を反らして、完全に冷めた珈琲を飲み干した。
 二人の間に、無音の時間が経過する。
 その間、正大はちらちらと視線をチカに遣って、何度か口を開こうとしたが、中々果たせなかった。
 そうしている内に、先にチカが沈黙を破った。
「これ、豊橋さんが持ってるといいっスよ」
 そう云って、チカが尻ポケットから一枚のカードを取り出して卓上に置いた。
 カードは、絵葉書だった。裏面には、淡い色合いにシンプルだけど角張った線の絵が落ちていた。
「トモシゲの新作っス。最近帰った時に、貰ったんスけどね」
 正大は静かにそれを手に取って眺めた。
 見覚えのある線だった。中学時代の、一緒にデザインした卒業アルバムを思い出した。
 チカが、席を立った。
 正大は慌てて口を開きかけたが、それに被せるようにチカが云った。
「恋しいのは、昨日の君」
「は、」
 突然チカが口にした言葉に、正大が聞き返す。
「その作品の、題っス」
 先刻までと変わらない、平坦な表情のまま、チカは云った。
 そう、と正大は力なく応えた。
 じゃあ俺はそろそろ、と云って、チカが扉に向かった。ご馳走様でした、と云う言葉も、彼は忘れなかった。
 正大は二人分の勘定を済ませて、店の外に出た。
 街の舗道の先に消えていく少年は、すれ違う若者たちと何等変わりない。身形も、言葉遣いも、雰囲気も。
 ただ、一つだけ違っているのは、その後ろ姿は正大に「会わない方がいいっスよ」と云っている事だけだった。

      →