|
|
街中から外れた場所にある廃ビル地帯の隙間に、周りと同じような外観を持つ平屋の工場が建っていた。工場の敷地は割と広めなのだが、周りを高いアルミニウムの塀で囲っているため、実際より狭く感じられる。それに、幾つかある工場の施設も同じガタガタのアルミニウムのフレームで覆われているせいで、無機質で人気を感じさせない。日中は音が漏れるためそうでもないが、陽が落ちると途端に工場は周りの廃虚の中に深く埋もれてしまっていた。 安っぽい建物の内側から僅かに漏れ出る人口灯の中に、人影が一つ落ちる。敷地一面に敷かれた砂利を、その人物は薄いズックで踏み付けながら、塀の出入り口に向かって歩いていた。粗い砂利の隙間からは、頼りない雑草が疎らに点在している。彼らは、何度踏み付けても元在った通りに起き上がってくるので、工場の敷地は常に薄い緑色の布に覆われているようだった。 規則正しいズックの音が静かに谺している敷地に、激しいエンジン音が鳴った。ド、ド、ド、と繰り返すピストン音が、人影に近づいてくる。 「あれ、誰かと思ったら漁府さんだったの」 臙脂の大型二輪に乗った青年が、ズック靴の人物の隣で足を着いて停まった。フルフェイスのメットを取る。二十歳を少し過ぎた年の頃の青年だ。車体も大きいが、彼もかなりの長身で、二輪に股がる姿には安定感が在った。 「今日は単車に乗ってきてないの、」 青年が、横にいる漁府、と呼んだ人物に訊いた。平たいズックを履き、曝れた紺のジーパンとぶかぶかのトレーナーに、薄いジッパーの上着を引っかけた人物は、声を掛けられて青年を振り返った。極端な背丈の差から、少し見上げるような格好になる。歳は、青年と同じ位。癖毛のようにばらばらにカールした黒髪の間から覗く顔は、化粧っ気の無い、少し幼い感じのする女性だ。 「乗ってきたけど、後輪のナットがかなり緩んでたから、置いてきた」 「何、じゃあ如何やって帰るつもり」 「徒歩」 「無理だって」 平然と答える彼女に、青年は少し声を大きくした。 「大丈夫やって。電車乗ったら、たかが三区間」 彼女はそう云って笑った。 「たかが、って……。そもそも、此処からじゃ駅まで行くのにかなりの距離があるのに」 「だって、今月お金無いねんって。タクシー呼んだら、高う付くしなァ」 風が、何処かから枯れ葉を運んできて、足下で掠れる音が鳴った。だが、夕闇が落ちてきた眼には、その形は定まらない。 「送って行くよ。漁府さん、メットは持ってるよな」 「まぁ、持ってるけど。二ケツって、転んだら後ろの方が危険やって知ってた、」 「歩くよりマシだよ。……飛ばし屋智重、って誰のことだっけ」 「それは独りの時の話。仲原君、何キロ出す、」 青年、仲原は、少し考えて云った。 「人を乗せてたら、六十以上は出さないよ」 「その半分なら、乗ってもええわ」 彼女、漁府智重は当然のように返す。仲原は暫く唸っていたが、判った、と応えた。 廃虚の建造物の囲む細い道路に、静かなエンジン音が響く。 対向車も後車も来る気配のない見渡しの良い路からは、少し目を凝らせば建物の隙間に星灯が見えた。 「今、何キロ、」 後部シートに座って、前の座席の先端を運転手のジャンパーの上から掴んでいる智重が、訊く。 「十五キロ」 「遅ッ。そんなに落とさんでもええって」 「いいじゃん、たまには。……なんか、楽しくねェ、」 仲原が、少し笑って云った。 「のんびり走るの好きよ、俺は」 エンジンがゆっくり回転している所為で、気張って声を出さなくても、相手に届く。 後部座席の智重が、少し上半身を傾けて顔を天に向けた。 「そやなァ。星も見えるしな」 周りの風景からは、廃ビルが疎らになり始め、庭のような小さな田と人家が並び出した。 速度は出していなくても、肌寒い季節に乗る二輪車は、普段より風が冷たく感じる。仲原は少し身を屈めた。 「漁府さん。手、腰に廻してくれる、」 云われた通りに、智重が両手を腰に当てた。 「もっと、きつく」 「……速度、出す気、」 智重が、怪訝な声を出す。仲原はそれに、普段通りの調子で返した。 「違うよ。半端に掴まれると、ジャンパーの隙間風が寒い」 「ああ。悪い、悪い」 軽く謝って、智重は仲原のジャンパーの裾と裾を締めるように握って両手を重ねた。 背中から伝わる体温が、頬を撫でる冷気と対比していて心地良い。 仲原は、そのままの態勢を崩さないように気をつけながら、前だけを見ていた。速度計の針は、相変わらず一足の手中だ。 「最近、空色の五十cc、乗って来てないの」 仲原が、後ろに向かって云う。 問われた智重は、あぁ、と欠伸のように語尾を伸ばして、答える。 「譲った」 「誰に」 「……息子」 は、と思わず声を大きくして、仲原は慌てて聞き返した。 「何て云った、今。……ムスコ、」 「そう」 淡々と智重は返す。仲原は暫く考えてから、口を開いた。 「漁府さんって、結婚、何時したの」 「してへんよ」 同じ調子で答える智重に、仲原は一息置いてから、もう一度訊いた。 「息子って、幾つなの。単車に乗るような年頃、」 「十六。早いかな、」 「……いや」 そう答えて、二人は暫く沈黙した。 仲原と智重は、同系統の専門学校を卒業後この工場に就職した同期で、同い年だ。今年で、入社二年目になる。その智重に、結婚もしていないのに息子がいるわけもなく、ましてや二十歳そこそこの青年に十代の子供が産めるわけがない。 仲原には、彼女が誰の事を指して「息子」と云ってるのか、判らなかった。背中から伝わってくる智重の熱が、実際より熱く感じられた。ギアを一つ踏んで、速度を少しだけ上げる。 「なぁ、」 智重が、仲原に語り掛けた。声が、少し小さい。 仲原が、うん、と応える。 「うちって、自分勝手かな」 「何で」 風が、冷たかった。景色は、少しだけ移り変わって、前方には街の灯が見えた。 「……先刻云った息子、今、高一やねん。今年、十七歳になるのに」 「うん、」 「一年遅れ、って事」 疑問調で聞き返した仲原に、智重は云った。 そして、智重は頬を仲原の背中に押しつけた。 「うちが、高校は行った方が良い、みたいな事云って、行かせてん。自分の時は、あれだけ厭々ながら行った場所やのに。高校ばっかが路や無い、っていつも思ってたのに」 背中から響く声を躰で聞きながら、仲原は考えていた。 「宿貸してるのも、家事押しつけてるのも、学費出してるのも、保護者してるつもりになってるのも。みんな、うちのエゴかなぁ。そんなんで、自分が人や世の役に立ってるつもりになってるなんて、高慢なんかなぁ」 智重の声は、少しずつ大きくなっているのに、質は細かった。 「そんな事無いよ」 仲原が、強く云った。 「云うのは簡単だけど、そうやって実行できるって事は、本当にその人の事を考えてるからだよ」 ハンドルを、もう少しだけ、きつめに握る。僅かに躰が揺れて、頬を切る風がまた少し冷たさを増す。 「じゃないと、出来ないよ」 仲原が、念を押すように呟いた。 「……そう思われたいのかも」 智重が、静かに云った。 「それも、自己満足なんかな」 語尾が、風に飛ばされる。 「そんな事、無いよ」 仲原が、もう一度念を押した。 そして、実際は如何なんだろう、と思った。親が、子を育てると云うことは。 その行為全てが、親の自己満足になるのだろうか。真に、子の事だけを考えて子育てをする人はいるのだろうか。そのどっちもが入り混じっている事は、罪なのだろうか。 「俺たちの親は、如何だったんだろうなぁ」 宙に向かって、仲原は云った。 智重が、少しだけ顔を上げる。背中の熱が、ほんのり引いた。 代りに智重は、両手で掴んだ仲原のジャンパーの裾を握り直して、少し強くなった風が中に入らないように交差させた。 街の空には、星が少ない。月が出ている日には、更に少ない。 「……矢張り、エゴかなぁ」 路は、何時の間にか二車線になっていた。 景色に人家が消え、高層ビルが並び出した。街の灯が、狭い天の色を薄める。運転手は、ハンドルを握り直し、後部座席で吐いた溜め息はエンジン音に掻き消された。 |