繁華街の商店の隙間に、時代に取り残されたように色褪せた壁と看板を持つ小さな建物が在った。ともすれば、見失ってしまいそうな、商店だ。
 からん、と端に付けた鐘が乾いた音をさせて、開き戸が開いた。
 戸を開けた人物は、小さく唸るように声を出しながら、寒ィ、と二度繰り返して声を上げた。
「大将、大将。居る、」
 狭い店内は、ぎっしりと背の高い棚が並んでおり、店主の座る奥の計算台さえも、入り口からは伺う事が出来ない。しかし、店は客が一度に何人も入れるような広さを持っているわけではないので、姿は見えなくても人体の呼吸音でほかの来客が居るかどうかは判ってしまう。今店に居る客は、つい先刻来店して声を上げた人物一人だ。
「はいはい、居りますよ。……と、その声はチカか」
 奥の座敷から店へ出る足音が聞こえて、大将、と呼ばれた店主が計算台に座った。
 年の頃、六十の後半。否、実際はもっと行っているのかも知れないが、長身に程よい肉付きの体躯を持つ彼は、お爺ちゃん、とは呼び難い。
 店主が、チカ、と呼んだ客は、商品である画材やペンキが並んだ棚を振り向きもせずに、真っ直ぐ計算台の前まで来た。
 少しオーバーサイズのジーパンに、日本語ロゴの入ったT-シャツ姿の青年は、年の頃、十代半ば程。小柄な体格は、中学生程度に見える。切り損ねたような半端な長さの髪は、黒と栗色の斑になっていて、灯の辺り具合で濃淡が変わった。
「大将。仕事、来てない、」
 店主の前に来るなり、彼はそう云った。
「あんた宛の仕事は、来てへんなァ」
 店主は、計算台の下から帳面を取り出しながら云う。
「この時期は不景気やさかい、依頼も減る。……塗り直しの注文やったら、幾つかあるけど」
「見せて」
 店主の捲る帳面を覗き込んで、チカが云う。店主はそれを彼に渡した。
「その中で看板の仕事は、一つだけやな。でもそれは、条件付きやぞ」
 チカが、店主の云った仕事の注文内容が載っている頁を捲った。その文面に、眼を通す。
「チカ。お前、今どれくらい生活厳しいんや、」
 店主が淡々と尋ねる。
 チカは、帳面の今捲った頁を暫く眺めた。そして、黙ったまま、その文面を凝視した。
 店主は、立ち上がって棚の前に行き、少し歪に並んでいたペンキの缶を整頓しだした。
 一息吐いて、チカが、勢い良く帳面を台に置いた。
「……後、三日は食べれる。電気代は昨日払った。家賃は、先月分滞納してるけど」
「ほう」
「だから、今回は妥協は止めとく。職人たるもの、自尊心を大切にしないと駄目だろ、やっぱ」
「何を、生意気な」
 悪戯にニヤリと笑ってみせる少年に、店主は悪態を吐いて笑った。
 チカは、三日経って食い扶持に困ったら今度はその仕事を受ける、と云って、店を後にした。
 外では、時期外れの冷たい寒気を含んだ雨が、降り続いている。