、サクラ





「先輩ッ!」
 突然呼ばれて、注水は引かれたように振り返った。
 胸に新入生用の紅い華を付けた少年が、廊下の先に立っていた。
 右手には大きな桃色を基調とした花束。
 新調したての詰襟が、ほんのりと雨で濡れている。
「よかった、間に合って……」
 彼は上がった息を整え、速歩でこちらへ歩み寄った。
 職員室から出てきた離任の教師が、廊下で彼らと言葉を交わしていた在校生徒が、この場にいるはずの無い彼の姿に振り返る。
「あら、どうしたのよ仙くん。立派な花束戴いちゃって……」
 惚けたように返した言葉を擦り抜けて、彼は注水の前へ右手の華を差し出した。
「退任……。先輩の」
「え、」
 少し俯き加減になった少年の頬を、雨の雫が静かに伝う。
「私に」
 注水は言葉に詰まった。
 少年はそんな彼女の手を静かに取り、そっと華を握らせた。
 ひんやりと、冷たい手だった。
「せっかく、先輩に追いついたと思ったのに……。もう退任しちゃうんですね」
 仙の複雑な表情が映る。
 一瞬、自分の眉が僅かに歪むのを注水は感じた。
「追いついたって言っても、今はもう教師と生徒だよ」
 彼女は明るくかわし、彼に言った。
「それに、学校では『先生』って呼ぶように言ったでしょ?」
「先輩は何故、退職しちゃうんですか。せっかく教師になれたのに」
 少年は注水の言葉を聞かずに疑問をぶつけた。
 彼は自分でも充分理解できるほど、何故かとても焦っていた。
 消えてなくなる煙を掴むように、いつも彼女は仙の手の中からするすると逃げていく。追いつこうとしても、決して追いつけない。
 彼にとって六つの年の差は、何よりも大きな壁だった。
 自分の眸を避けている仙を眺め、注水は窓の外に目をやった。
 立派に咲いた桜の上に、春雨が静かに降り注いでいた。
「十一年前も、あんなふうに桜が咲いていたわね」
 注水は独言のように呟いた。
「小学校の入学式の日。校庭の、丁度こんな桜の木の下で」
 丁度あんな桜の木の下で、二人で写真を撮ったんだ。
 二人で撮った、たった一枚の写真を。
 仙も彼女につられて窓の外に眼をやった。
「とても、晴れた日だったよね」
 しとしとと降り注ぐ雨を眺めながら、注水は言った。
 雨は特に激しくなる様子もなく、かと言って止む気配も見せず、ただ優しく彼らを見守っていた。
「私ね、やっぱり夢を追いかけてみることにしたの」
「夢、」
 突然の彼女の答えに、仙は視線を戻した。
 眼が合った。注水は悪戯に片目を瞑ってみせる。
「小学校の卒業文集に書いてた、あれよ」
 彼女は言った。
「南極」
 少年は呆然と彼女を見ていた。
 又彼の前から消えようとしている彼女は、とても生き生きとしているように見える。
「結婚じゃなかったんですか、夢」
 不意に、仙が口を開いた。
 注水は笑った。
「あー、あれね。あれは相手を探さなきゃいけないでしょ?」
 仙は言いかけた言葉を飲み込み、困った顔で彼女に視線を向けた。
 間を取ろうとして開いた口が塞がらなかった。
 実際は、何を言いたかったのかも分からなくなるほどに。
 腕時計に眼を落とし、少し急いだ様子の彼女は職員玄関に立った。
「雨、」
 ガラス張りの扉の外。
 仙が呟いた。
「まいったなぁ、傘持ってないや」
 注水はそう言うと、そのまま荷物と花束を両手に抱えて玄関の扉を押した。
「傘、持ってます」
 仙が、慌てて彼女の頭上に開いた傘をかざす。
 澄んだ碧い色。
 注水はその傘を見上げ、彼に視線を戻して言った。
「やっぱり、いいや。返せそうにないから」
 閉ざされた空間から、音が消えた。
 静かに降り続ける雨の音が単調なリズムで鳴り響き、耳を塞いでくれているようだった。
 身軽に傘の下から抜け出て行った、彼女。
 それを無言で見送りながら、少年は雨の中で咲く桜を見た。




<<「短編集」へBACK  「ものがたり」TOP