空が紅色に染まり始めた。
 陽が傾いてきたようだ。
 茶屋を過ぎてしばらく行くと、右手に町の水場が見える。
 境内では、遊んでいた童たちが、帰路に着こうとしているところだった。
「若いの、一人旅かい。じきに陽が暮れちまうけど、宿は見つかったかい」
 桶を手にした村人が少年に声を掛けた。
 彼は肩に掛けた杖の先に下げた桶を指して言った。
「いえ、私はこの通り文無しですので……。ここらで今夜は明かすことにします」
「そうかい。気をつけてな……あ、これ。腹の足しにでもしてくれや」
 男は巾着から、蜜柑のような小さな果実を出して彼の桶に入れた。
 食事の支度をするために水を汲みに来た大人たちと入れ違って、実知は石畳に腰を下ろした。
 杖の先に桶を下げ、肩に回した風呂敷の中程には女物の櫛を挟み、腰には長脇差をおとしている。短い髪をやっと頭部でまとめている、年の頃十三、四の少年だ。
(今夜は此処で明かすしかないな。でもここまで来るのにこの調子だと、明朝発てば着くだろう)
 実知は肩に掛けていた杖を降ろし、先に下げていた桶の中から握り飯の包み出した。
(明日には……)
 想いを振り切るかのように、彼は握りを黙々と口へ放り込んだ。
 二つ目の握りも半ばほど消えた頃、不意に、風に乗って笛の音色が聞こえてきていることに気がついた。
 耳を傾けてみる。
 尺八よりは音の高い音色。覚えのない曲節だったが、不快ではなかった。
 水場に来ていた村人たちも、何人かは立ち止まって石畳の上を眺める。
 どこか、懐かしい心地がする。
 実知は振り向かずに、段々と近づいてくる唄に合わせて目蓋を閉じた。


 故郷の村の、母屋の座敷だった。
 床に入っていた父が、半身を起こして口を開いた。
「義知が殺された」
 蒲団の側で、麻の着物を一枚羽織っただけの粗末な格好で、実知は胡座を組んで年老いた父を見た。
「お前は知らないだろうが……。十数年程前から行方知れずになっていた俺の弟だ。お前の叔父上に当たる」
 実知は黙って父を見据えた。良い予感はしなかった。
「……お通の父でもある」
 実知は眼を細めた。
「知っての通り、あの家には倅衆がいない……。察しは着くだろうが、義知の家系で仇討ちに出れる男は、お前だけだ」
 実知は元の眸に戻って、父の顔の向こう側にある古い壁を見つめていた。
 叔父の家の子はおなごばかり三人で、長女の家は跡継ぎに、次女は家を出て遠く離れたところに暮らしているため連絡も着かず、三女の通の許婚である実知に話が来たのだ。
 父は息子の眼を逸らしそうになるのを堪えて、続けた。
「行方知れずになっていた義知がこの村に戻ってきたのは、つい先日のことだ。村の連中と連れだっていった町の飲み屋から出てきたところ、武士とぶつかったんだ。武士はそのまま去ろうとしたんだが、義知は酔った勢いで脇差を抜いてしまった……。義知は多少剣を心得てはいたんだが、相手が悪すぎた」
「まさか……その町の武士ってのは……」
 背筋に冷たい風が吹き抜けた気がした。
「お前の師、在我中津だ」


 母屋から少し離れた所に在る畑の側に、農具の物置き小屋があった。
 その前の土地に少し開けた場所が在る。
 実知はいつもの質素な格好で、打たれた大きめの杭に腰を降ろしていた。
「実知……」
 娘の声がして顔を上げた。
 小屋へ下る細道に、町人風の装いをした年の頃十六、七の娘が立っていた。
「通」
 通は悲しい眼を実知に向けていた。
「……何時発つの、」
「明後日」
「……本当に行くの……?」
 通が、確認するように問う。
「何言ってんだよ、通の父上が斬られたんだぜ?」
「でも相手は実の恩師なんだ……。それにあたし、父上の顔も、生きてたことさえも、先日知ったばかりなんだよ……」
「そんなの……関係ない。それに、俺は、鞍原の男だ」
 通は実知を見据えて口を噤んだ。
 実知は、足下を這う蟻を見つめている。
 不意に、通が言った。
「武士って厭だね、」
 実知は通を見つめた。
「あたし……お父の仇なんて取るより、実にずっと一緒に居てくれたほうが嬉しいよ。例え討ち取ったとしても、実はもう村へは帰ってこれないんだろ……」
「おいおい……、そんな事言うなよ。鞍原の名が泣くぜ。それに……」
 実知は一息置いた。そして、小さな声で呟いた。
「俺の腕で、討てる筈ないよ」
 畑の何処かで、松虫が鳴いていた。
 実知は腰を上げて、小屋の表の畦道を踏んだ。
「俺を、待つなよ」
「え、」
 実知は、振り向かずに立ち止まって言った。
「いい男が出来たら、俺のことなんか忘れて、一緒になれよ。俺たちはまだ、夫婦だった訳じゃないんだからな」
「何言ってんだよ、あたしは、」
「俺は、通に仕合わせになってほしいんだ」
 近づいてくる通に、実知は振り返っていった。
「戻ってこない野郎なんかに縛られるな」
 実知は、右手をそっと通の髪に伸ばした。そして、沈丁花の模様の掘られた柘植の櫛を抜き取った。
「これは、餞別に貰っておくぜ、」
「鞍原の……」
 実知は視線を一瞬土に落としたが、通を残して、畦道を上がっていった。


 水場に残っていた村人たちも、次々にその場を去っていった。
 笛の音が止んでいた。
 実知は、通の櫛に掘られた家紋を見ていた。
「ちょいと、そこのあんちゃん」
 石畳の上から、女の声がした。
 実知が振り向くと、旅芸人風の少しばかり派手な着物に身を包んだ市女笠の女が立っていた。
「あんた、お侍さんかい? 見たところ、随分と若いようだけど……」
 そう言うと女は、地に置いていた桝を差し出した。
「聴いてただろ、俺の笛。なに、お情け程度でいいのよ」
 そう言って笛吹きは笑顔で片方の指で桝を指す。
 実知は視線を泳がせて、杖の先に下げた桶を指した。
「なんだい、お前。文無しの旅人だったのかい。……そういう時は、じっとそんなとこに座ってないで、立ち去るってのが筋なんじゃないのかい」
 女は呆れた様子で実知に眼を向けている。
「……済まない」
 礼を言って実知は立ち上がった。女は溜め息を吐いて、彼を見据えた。
「まぁ、待ちな。もうじき陽が落ちる。ここで夜を明かすつもりだったんだろ。それに……」
 女は石畳を降りてきて、実知に近づいた。
「お前さん、唯の旅人じゃないね。……様子からして、仇討ちと言ったところか?」
 実知は引かれたように笛吹きを凝視した。
 其れを見た女は少し笑って言った。
「そんなに驚くことないよ。別に何も訊きやしないさ。ただ、お前さんが何か変に思い詰めたような様子だったからさ、気になってな」
 実知は一度視線をずらしたが、直ぐに戻した。
「お主、旅芸人か」
「まぁ、その様なもんかね。……一応、地方では『笛吹きの吉将』って名乗ってるよ。…お前さん、名は」
「……鞍原実敦第二子、実知だ」
「鞍原……。その櫛の花…、は家紋かい?」
 吉将は家名に関心の無い風だった。
 実知は手にしていた通の櫛を見つめた。
「……まぁいいや。それより、陽が落ち切るまで、もう一曲どうだ? 銭はいらねぇからよ」
「いいのか、」
「ああ」
 吉将は石段を降りきり、水場近くの岩に背を預け、そして手にしていた竜笛を唇に当てた。


 夢を見た。
 師匠が、いつも好きだと言っていた丘の野原に来ていた。
 背丈の小さな、名も知らぬ小さな花が足元で咲き乱れていた。
 その、見渡す限りの何も居ない空間に、在我中津が居た。
「……師匠、」
 口の中で小さく、実知はその呼び名を呼んでいた。
 風が吹いていた。
 実知は懐から御免条を出して、その手を突き出した。
「叔父上、鞍原義知の仇を討ちに来ました」
 在我は実知から数十丈離れたところに、立っていた。
「……稽古、願います」
 腰の長脇差に手を掛ける。
 在我は、刃を空に向けて上段に構えた。
 実知は、胸の前で低く構える。
 動かなかった。
 実知は眼を細めた。
 刃に反射する陽が、眩しかった。
 不意に、風が凪いだ。
 二人は、同時に駆け出した。
 実知は叫んでいた。身体の底から、叫びたかった。
 高い金属音がして、片刃が刹那、交わる。
 肩に痛みが走った。
 そして二人は背を向けた。
 実知の足元に、血溜まりが出来た。
 次の瞬間、背で大きな音がした。
 実知の刀から伝った大量の血は、彼の腕を黒く染めていた。
 判っていた。俺が師匠に勝てないことくらい──。
 ……涙が流れた。

 ──そんな、夢を見た。
 長い長い、夢を見ていた……。


 陽が丁度南中した頃だった。
 水場には、村の童たちが無邪気に戯れ事をしていた。
 耳には昨夜聴いたのと同じ笛の音が流れていた。
 しばらくして、演奏が終わる。
「それ、昨夜のと同じやつだな。懐かしい匂いがする」
 実知はそう言って石畳を上って片手を突き出した。
 手には、包紙が握られている。
 吉将は笑って手で制した。
「いいさ、今のは餞別代わりだよ」
「そうか」
 実知も微笑んで其れをしまった。
「お前さん、これからどっちに向かうんだい」
 土に広げた商売道具を片しながら、吉将が問う。
「村へは帰れねぇから、このまま北へ進むよ」
「そうかい。それじゃあ俺はこれから南下するとしようかね、」
 水場の石畳を上り切ったところに、別の国へ出る街道が在る。
 その道を左右に別れて、二人は振り返った。
「達者でな」
 吉将が無邪気な笑みを浮かべて、大きく手を挙げた。
 其れに習って軽く手を挙げようとした実知は、ふと気がついて言った。
「吉将さん、先刻の曲……なんて名だ、」
 吉将は大きく挙げていた手を静かに降ろすと、優しい表情をして答えた。
「沈丁花」
 実知は眼を丸くして、その場に立ち尽くした。
 吉将は、そのまま振り返らずに、街道の木陰へと姿を消していった。
「鞍原の家紋……」
 通の櫛を眺めていた吉将を思い出す。
 今朝の情けを通した在我を思い出す。
 実知を止めたがっていた通を思い出す。
 『……懐かしい匂いがする』
 『沈丁花』

 様ねぇぜ、沈丁花に苦しめられた者が、沈丁花に癒されていたなんてな。

 実知は身を返すと、吉将が消えていったのとは反対の街道に向かって、歩み出した。




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