●●● 昨日のラブソング 今日で、最後だ。 目が覚めてすぐに、そんな想いが頭に浮かんだ。 アルミサッシの窓枠の向こうから、光が漏れる。 煩いほどに鳴り響く、鳥の音。 それに混じって、鳩の群れの低い声が伴奏する。 ───そんな朝を迎えるのも、今日が最後だった。 あれから三年。ついにここが撤去される日が来た。 アパートを借りようと思えば借りられた。 ただ、居着いてしまったこの場所を離れることが出来ず、最後までずるずると延長してきたのだ。 渡部操平は鏡を覗き込んで、やつれた顔を両手で叩いた。 そしていつもと同じように、鍋と七厘を抱えて部屋の外に出た。 空はまだほんのりと薄暗く、少し肌寒い風が心地よかった。 味気ない、同じようなプレハブが立ち並ぶ仮設住宅広場。 その真ん中で、みんなの朝食を作るのが渡部の日課になっていた。 「今日も早いねぇ、操ちゃん」 向かいの部屋の『母ちゃん』こと田辺さんが、部屋から出てきて云った。 「今日で最後だからね」 渡部は笑顔で答える。 「おしっ、じゃあ今晩はみんなで焼肉でも食いに行くか」 「いいですねぇ。満田さんの奢りですか」 「莫迦言え、割り勘に決まってるだろ」 隣の部屋から満田のおっちゃんが、その隣から矢神さんが、次々と起きてきて渡部の周りに集まってくる。 そして、出来上がった朝粥をみんなで突いて団欒するのが、ここの一日の始まりなのだ。 渡部は、この長屋のような雰囲気が好きだった。 それから。 「おはよう」 片手に、先刻作った粥を持って渡部は彼女の前に立った。 鳩と雀たちに囲まれた中心に、少女はしゃがみ込んでいる。 仮設住宅広場のすぐ向かいにある、遊具の少ない公園。ここに、決まって毎朝来ている名前も知らない少女に、渡部は粥の残りをいつも持ってきていた。 彼女は少し微笑んで器を受け取り、側にある石段に腰を下ろして粥をすすった。 その横顔を眺めながら、渡部はためらいながら云った。 「今日、撤去の日なんだ」 少女がふと顔を上げた。 「君はまだ、ここに残ってるの、」 彼女はしばらく渡部を見つめていたが、何も云わずにまた粥をすすりだした。 その間、渡部はエサを突いている足元の鳩たちを眺めていた。 いつもと同じ場面。 いつだって、二人はそんな感じだった。 少女が、空の器に軽く頭を下げて、又いつものように小さく微笑んで渡部に器を差し出す。 それが妙に大人っぽく映って、彼は眼を細めた。 夕方。 渡部は、朝みんなで約束した通り、仮設住宅広場にいた。 「今日で、みんなが集まれるのも最後だ。だから……」 鍋を囲んで粥を口に運びながら、満田が云った。 仮設のみんなで、どこかへ食べに行こう、と。 まだ、誰も来ていない。 渡部は三年前、ここにはじめてきた頃のことを思い出していた。 「ここに、こうして集まれることは幸せなことだねぇ」 いつか、『母ちゃん』が言っていた言葉。 プレハブの間から見える、公園に見た鳩に囲まれた少女。 そんな、通り過ぎてしまった思い出たちが、走馬灯のように目の前をぐるぐると回るのだ。 「操平くん」 突然、耳元で声がして、渡部は我に返った。 「矢神さんですか、驚かせないでくださいよ」 苦笑しつつ、まだ周りに誰も集まっていないことを感じた。 矢神はひどく急いだ様子で、渡部に云った。 「実は、田辺さんが朝の便で実家に帰らなければならなくなって、来れなくなったんです。それから満田さんは親類の危篤でついさっき、僕もこの時間を逃したら帰れなくなってしまって……。今日の夕食は取り止めになったんです」 一瞬、胸を突かれたように感じた。 次に、やっぱりな、と頭の何処かで矢神の声を聞いている自分に気がついた。 「そう、だったんですか」 「残念です」 矢神は、実に残念そうに言葉を濁した。 「うまくいかないものですね」 気がつくと、そう云っていた。 今の、正直な感想だった。 「じゃ、僕はこれで。……お元気で」 矢神は、何度かこちらを振り返りながら、名残惜しそうに去っていった。 独りになった。 結局、最後まで残ったのは渡部だけになった。 安っぽい仮設の隙間から見える公園に、彼女の姿を探してみる。 味気なくも広い公園は、ただ静かに佇んでいるだけだった。 しかし、その中に低い声が聞こえる。 ───鳩だ。 渡部は何故か、小走りで公園に駆け込んだ。 少女がいつも座っていたベンチ。 その辺りに、いつもはもう居ない筈の鳩たちが、静かに時を過ごしている。 それらを追って足元に視線を落とすと、砂に何か書いてあるのが見えた。 ワタベくん ありがとう チギラ 「『チギラ』……?」 一瞬、何のことか判らなかった。でもすぐに、あの娘の事だと思いついた。 渡部は、自分の名前を名乗った覚えはなかったが、不思議と違和感は覚えなかった。 そしてその字を見て、渡部は気づいた。 ああ、そうか。チギラは言葉が話せなかったんだな、と。 今までの行動を思い出しても、きっとそうだ、と思い当たる節がいくつもある。 どうして今まで気づかなかったのだろう。 すべては、過ぎ去っていく流れの中で悟るのだ。 いつかまた この場所で ワタベ 砂に書いた文字を見下ろして、渡部はその言葉を足で掻き消した。 その上からまた言葉を継ぎ足して、彼は立ち上がった。 暗くなった空に、十日月が浮かんでいた。 少し肌寒い夜風に吹かれ、渡部は身を縮ませる。 そして、小さく口笛を吹きながら、公園を後にした。 いずれ、立ち去らなければならない場所。 いずれ、離れ離れになる仲間。 それは、少し悲しい恋の詩。それでも、人は詠い続けるんだ。 そうすれば、昨日が美しく微笑む思い出になるから。 |