昨日





 今日で、最後だ。
 目が覚めてすぐに、そんな想いが頭に浮かんだ。
 アルミサッシの窓枠の向こうから、光が漏れる。
 煩いほどに鳴り響く、鳥の音。
 それに混じって、鳩の群れの低い声が伴奏する。
 ───そんな朝を迎えるのも、今日が最後だった。
 あれから三年。ついにここが撤去される日が来た。
 アパートを借りようと思えば借りられた。
 ただ、居着いてしまったこの場所を離れることが出来ず、最後までずるずると延長してきたのだ。
 渡部操平は鏡を覗き込んで、やつれた顔を両手で叩いた。
 そしていつもと同じように、鍋と七厘を抱えて部屋の外に出た。
 空はまだほんのりと薄暗く、少し肌寒い風が心地よかった。
 味気ない、同じようなプレハブが立ち並ぶ仮設住宅広場。
 その真ん中で、みんなの朝食を作るのが渡部の日課になっていた。
「今日も早いねぇ、操ちゃん」
 向かいの部屋の『母ちゃん』こと田辺さんが、部屋から出てきて云った。
「今日で最後だからね」
 渡部は笑顔で答える。
「おしっ、じゃあ今晩はみんなで焼肉でも食いに行くか」
「いいですねぇ。満田さんの奢りですか」
「莫迦言え、割り勘に決まってるだろ」
 隣の部屋から満田のおっちゃんが、その隣から矢神さんが、次々と起きてきて渡部の周りに集まってくる。
 そして、出来上がった朝粥をみんなで突いて団欒するのが、ここの一日の始まりなのだ。
 渡部は、この長屋のような雰囲気が好きだった。
 それから。

「おはよう」
 片手に、先刻作った粥を持って渡部は彼女の前に立った。
 鳩と雀たちに囲まれた中心に、少女はしゃがみ込んでいる。
 仮設住宅広場のすぐ向かいにある、遊具の少ない公園。ここに、決まって毎朝来ている名前も知らない少女に、渡部は粥の残りをいつも持ってきていた。
 彼女は少し微笑んで器を受け取り、側にある石段に腰を下ろして粥をすすった。
 その横顔を眺めながら、渡部はためらいながら云った。
「今日、撤去の日なんだ」
 少女がふと顔を上げた。
「君はまだ、ここに残ってるの、」
 彼女はしばらく渡部を見つめていたが、何も云わずにまた粥をすすりだした。
 その間、渡部はエサを突いている足元の鳩たちを眺めていた。
 いつもと同じ場面。
 いつだって、二人はそんな感じだった。
 少女が、空の器に軽く頭を下げて、又いつものように小さく微笑んで渡部に器を差し出す。
 それが妙に大人っぽく映って、彼は眼を細めた。



 夕方。
 渡部は、朝みんなで約束した通り、仮設住宅広場にいた。
「今日で、みんなが集まれるのも最後だ。だから……」
 鍋を囲んで粥を口に運びながら、満田が云った。
 仮設のみんなで、どこかへ食べに行こう、と。
 まだ、誰も来ていない。
 渡部は三年前、ここにはじめてきた頃のことを思い出していた。
「ここに、こうして集まれることは幸せなことだねぇ」
 いつか、『母ちゃん』が言っていた言葉。
 プレハブの間から見える、公園に見た鳩に囲まれた少女。
 そんな、通り過ぎてしまった思い出たちが、走馬灯のように目の前をぐるぐると回るのだ。
「操平くん」
 突然、耳元で声がして、渡部は我に返った。
「矢神さんですか、驚かせないでくださいよ」
 苦笑しつつ、まだ周りに誰も集まっていないことを感じた。
 矢神はひどく急いだ様子で、渡部に云った。
「実は、田辺さんが朝の便で実家に帰らなければならなくなって、来れなくなったんです。それから満田さんは親類の危篤でついさっき、僕もこの時間を逃したら帰れなくなってしまって……。今日の夕食は取り止めになったんです」
 一瞬、胸を突かれたように感じた。
 次に、やっぱりな、と頭の何処かで矢神の声を聞いている自分に気がついた。
「そう、だったんですか」
「残念です」
 矢神は、実に残念そうに言葉を濁した。
「うまくいかないものですね」
 気がつくと、そう云っていた。
 今の、正直な感想だった。
「じゃ、僕はこれで。……お元気で」
 矢神は、何度かこちらを振り返りながら、名残惜しそうに去っていった。
 独りになった。
 結局、最後まで残ったのは渡部だけになった。
 安っぽい仮設の隙間から見える公園に、彼女の姿を探してみる。
 味気なくも広い公園は、ただ静かに佇んでいるだけだった。
 しかし、その中に低い声が聞こえる。
 ───鳩だ。
 渡部は何故か、小走りで公園に駆け込んだ。
 少女がいつも座っていたベンチ。
 その辺りに、いつもはもう居ない筈の鳩たちが、静かに時を過ごしている。
 それらを追って足元に視線を落とすと、砂に何か書いてあるのが見えた。

ワタベくん
ありがとう
チギラ

「『チギラ』……?」
 一瞬、何のことか判らなかった。でもすぐに、あの娘の事だと思いついた。
 渡部は、自分の名前を名乗った覚えはなかったが、不思議と違和感は覚えなかった。
 そしてその字を見て、渡部は気づいた。
 ああ、そうか。チギラは言葉が話せなかったんだな、と。
 今までの行動を思い出しても、きっとそうだ、と思い当たる節がいくつもある。
 どうして今まで気づかなかったのだろう。
 すべては、過ぎ去っていく流れの中で悟るのだ。

いつかまた この場所で
ワタベ

 砂に書いた文字を見下ろして、渡部はその言葉を足で掻き消した。
 その上からまた言葉を継ぎ足して、彼は立ち上がった。
 暗くなった空に、十日月が浮かんでいた。
 少し肌寒い夜風に吹かれ、渡部は身を縮ませる。
 そして、小さく口笛を吹きながら、公園を後にした。

 いずれ、立ち去らなければならない場所。
 いずれ、離れ離れになる仲間。
 それは、少し悲しい恋の詩。それでも、人は詠い続けるんだ。
 そうすれば、昨日が美しく微笑む思い出になるから。




<<「短編集」へBACK  「ものがたり」TOP