バー コン





「恐れないで」
 夕暮れの木洩れ日が、水面できらきらと躍っていた。
 オールを放した船は、二人を乗せて静かに漂っている。
 向かい合って座った仁香が、そっと微笑む。
 黄昏が、彼女の頬と狭いボートを縁取っていた。
「恐れてなんか いないわよ」
 仁香は、確かめるように優しく言った。
「だって、私と貴方は『恋人』でしょ?」
「そう、だけど……」
 本当の恋人じゃない、という言葉をシュイは飲み込み、仁香を見つめた。

 彼女と出逢ったのも、こんな美しい夕暮れだった。
 仁香はここに来たばかりで、船を持っていなかった。
 それから。
 彼女の勤めるガッコーに白亜を届けていたシュイは、通勤の時だけ顔を合わせる『恋人』になっていた。
 でもそれは、男女が一つの船に乗り合わせる、という意味で。


 仁香は、相変わらず優しく微笑み、無邪気な眼で彼を眺めていた。
 その景色を、シュイは静かに胸の奥に刻み込んだ。
 もう、このままずっとオールを握りたくない、とシュイは思った。
 流れの無い沼は、二人の時間を止めてくれる。
 シュイは、仁香の瞳の奥で揺れている『何か』を恐れていた。
「じゃあニカは、何を恐がっているの?」
 仁香は、不思議そうな眼で彼を眺めた。
「やだ、もう……」
 一瞬、ごまかすように言葉を濁したが、
「なんで分かるの」
 仁香は呟いた。
 シュイは黙っていた。
 それを答えと取ったのか、彼女は小さく口を開いて言った。
「こどもが、こわいの……」
「こどもって、僕のこと?」
 シュイは思わず言った。
 仁香は、又静かに微笑んだ。
「違う。たぶん、学校の生徒のこと」
 そう言って、一息付いた後に、
「だと、思う」
 と付け加えた。
 仁香の答えは、いつもはっきりとしているのに、あやふやな表現が多かった。
「シュイは、こどもじゃないわよ。私よりも、ずっと年上のはず」
「そうかな……」
 シュイはそう言って、白亜で汚れた自分の白い手を見た。
 静寂が二人を包んだ。
 止まった『時』は、やけに長く感じられる。
「何でかな、」
 仁香が言った。
「みんな、いい人ばかりなのにね」
 彼女は、にこりと笑った。


 その日を、彼はずっと忘れないだろう。


 シュイは、ずっと待っていた。
 朝靄のかかる岸辺に船を繋いだまま、ずっと。
 あの時、胸に刻み込んだ景色が鮮明に思い出された。
 刻は下がり、黄昏が彼を包み込んでも、ずっと待っていた。


 翌日、シュイはいつものように白亜の袋を積んで、船に乗った。
 仁香は来なかった。
 あの日、感じた不安。
 シュイは、こんな日が来てしまうのをずっと恐れていた。多分、出逢ったその日から。

 丘を駆け上がると、白い石畳の建物が見えた。
 その側でこどもたちが数人、楽しそうに芝生と戯れていた。
「シャオニー」
 シュイは、その中の一人に声をかけた。
 呼ばれたこどもは振り返るなり、
「シュイ!」
 と、駆け寄ってきた。
「どうしたの?」
 シャオニーは、無邪気な笑顔を浮かべて、シュイを見上げた。
「……先生は?」
 一瞬ためらって、シュイはそう言った。
「彼女は国に帰ったよ」
「え、」
 背後から聞こえてきた声に振り返ると、学校長の老人が立っていた。
「二日前に、ここを発った。……初めから決まっていたことだ」
 シュイは言葉を失った。
 そのまま、呆然と彼を見ていた。
 シャオニーが、シュイの手を強く握った。
「隣国なんだ。いつでも会える」
 何か熱いものが、胸の奥から込み上げてくるのを感じた。
 シャオニーの小さな手をそっと握り返す。
 シュイは黙ったまま、何度も何度も頷いた。
「シュイ……」
 見上げているシャオニーの無垢な眸にぶつかった。
 思い起こしてみると、仁香の眼もこれによく似ていた。
 彼女の言っていたように、きっと仁香はシュイよりずっと年下だったに違いない。
 そう思えてきた。
 でも。
「シュイ、泣いていいよ」
 シャオニーが優しく言った。
 老人も、彼にそっと微笑んだ。
 気がつくと、芝生で戯れていたこどもたちが、いつのまにかシュイの周りに集まっている。
「大丈夫、泣いてない」
 シュイはシャオニーの手を放し、にこりと微笑んだ。
『みんな、いい人ばかりなのにね』
 仁香が言った言葉を思い出す。
 毎日同じ船に乗って、無邪気な眸でそっと微笑んで。

 その眸の奥で揺れている何かに、シュイは恐れていた。
 でも、そんな彼女の存在があるだけで、それだけで満足だった。



『ガッコーって、楽しい?』
 丘の上。
 白壁の学校の前で、それを訊いたのは。

 あの時、仁香は何と答えるわけでもなく、ただ黙って微笑んでいた。

 夏の午後は、遠ざかろうとしている。

 シュイは、仁香の住む国へは行かないことを誓った。
 シュイの知っている『ニカ』は、彼の想い出なのだから。

 想い出はいつまでも、眩しく輝く存在なのだから。




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