突然背後から声をかけられて、彼女は驚いた。
 聞き覚えのあるような、無いような声。
「センパイ」
 少しハスキーがかった少年の声だ。
 彼女──弥倉実佳は、周りに自分しかいないことを確認して、さりげなく振り返った。
 少年が、にかっと笑う。
「センパイ、一人ですか」
 実佳とそう変わらない背丈の少年だった。
 センパイ、と呼ぶだけあって、制服のネクタイの学年色から見ると、どうも彼は一つ下の一年らしい。
 色ぶちの、細長い形の眼鏡の下から、少し細い目が覗いた。
「君は、……」
「バレー部の川崎哲生です」
 実佳が聞く前に、彼は自ら名乗った。
 道理で見たことがあるわけだ、と彼女は思った。
 バレー部と言えば、バスケ部員である実佳たちの隣で毎日活動しているクラブだ。
 しかし……。
 彼女は、彼と会話らしい会話をしたことがない。ボールを取ってもらったり、挨拶をする程度の面識だ。
 実佳はなんとも返事のしようが無く、顔をしかめた。
「今から帰りだよね、一緒に帰ろうよ」
 少し微笑んで、哲生が言った。
 急に、同級生に話しかけるようなくだけた口調で。
「何であたしが、あんたと一緒に帰らなきゃならないわけ、」
 いつもの調子で冗談めかして実佳が言うと、
「いいから、いいから」
 と哲生は笑って返し、実佳の手を引いて昇降口を出た。
 午後六時半。
 外はもう、辺り一面夕闇に包まれ始めていた。
 平素から使っている裏門の外灯が、二人の顔を照らしている。
 生徒の人影は見かけなかった。
 遠くで吹奏楽部の音色が聞こえるだけで、他のクラブ員達はもう帰っていないらしい。
「センパイの家って、どこなんですか」
 一人分の距離を保って並びながら、哲生が口を開けた。
「あたしはここの近所だけど。あんたはどこ住んでるの」
 実佳は自転車を押しながら哲生に返した。
「俺は袂村です。準急電車で、四十分くらいの所の」
「そんな遠くから来てるの、大変だねぇ、」
 実佳は派手な声を上げて驚いた。
 この辺は街だが、袂まで行くと本当に『村』ばかりになる。
 彼女はそんな辺境までは行ったことが無かったが、同じ学校に通っている彼は、毎日そこから登校しているのだ。
「じゃあ、部活して帰ったら十時ぐらいになるんじゃない、」
「そうですね」
 哲生はあっさり答えて、そして小さく溜め息を吐いた。
 実佳の家は、駅から徒歩十分程度の場所にある。
 そこまで、二人はほぼ初対面の筈なのに、たえず会話を続けていた。
 たわいもない内容。クラスのことやら、クラブのことやら、進学のことやら。
 その間、哲生は幾度と無く、溜め息を吐く。
 溜め息はだんだん大きくなって、実佳の家に着くと彼は遂に立ち止まった。
「実佳ちゃんは、彼氏いるの」
 哲生はまた、砕けた口調で彼女に言った。
 彼が突然口にした『実佳ちゃん』に一瞬と惑ったが、彼女は、え、と問い返して笑うように答えた。
「いないよ。そういう川崎くんは居るんでしょ」
「居ないよ、そんないいもの。いたら、ここに居ないもん」
 悪戯な口調で言った実佳に、哲生は溜め息混じりに言った。
「そう。じゃあ、好きな人は居るんだ」
 実佳がまた聞き返した。
 しかし、哲生は黙ったまま地面を見つめている。
「どうしたの、突然」
 実佳は彼の顔を覗き込んだ。
 哲生は、下を向いたまま言った。
「実佳ちゃんこそ、本当は彼氏居るんでしょ」
「いないわよ、何言ってんの、」
「じゃあ、何で恋人作らないの」
 怒ったような表情で、哲生は顔を上げている。
「何で、ってあんた……それは無理な質問だよ」
 実佳は突然言い出した哲生を不可解に思いながら、彼の顔を眺めた。
「そんなの、寂しいじゃないですか」
 今までより少しトーンを落として、哲生が言った。
 辺りはすっかり夕闇に包まれていた。
 外灯から少し離れた場所に居る二人には、お互いの表情がよく見えない。
「川崎くん……何かあったの」
 実佳が、柔らかい声で彼に問いかけた。
 哲生は、きつく結んでいた口を開けて、ぽつりと言った。
「好きな人がいたんです。でも、失恋しました」
「そう、なの……」
 そのまま、実佳はしばらく彼を眺めていた。
「でも、いつまでも引き摺ってたら、自分がもったいないよ」
「今日、失恋したんですッ」
 え、と声をあげて、実佳は目を丸くした。
「今日、その人に彼氏が居るって知ったんです」
 哲生はいじけたように言って、外方を向いた。
「それはお気の毒様。まぁ元気だしなよ、しばらくは辛いだろうけどさ」
 実佳は自分でも、人事だな、と思えるような軽い口調で言っていた。
 哲生は振り替えって、
「実佳ちゃん、全然考えてないでしょ」
 と拗ねたように言う。
「だって、あたしにどうしろって言うのよぉ。そんな時は、早く帰って飯喰って寝なッ」
 哲生は、同じ表情のまま、彼女を見据えている。
「あんた、早く帰んないと終電になっちゃうよ、」
「別にいいですよ。それでも」
 ぶっきらぼうに答えて、哲生は低い声で言った。
 時計の針は、もうすぐ八時を差しかけている。
 実佳はそれを見て、慌てて言った。
「あたし、今日塾があるのよ。じゃあ、ごめんねっ」
 そう言うと、彼女は哲生に背を向けてすぐ隣にある自分のマンションへ向かった。
 と、突然哲生が実佳の手を掴んだ。
 振り切ろうとしても、振り切れない。
「ちょっと、放してよ」
「……放さない」
「あんた、あたしは忙しいの。判る、」
「……放さないッ」
 駄々をこねる子供のように、哲生が見えた。
 しかし、きつく握られた手首は、実佳の力ではとうてい振り切れない。
 しかたなく実佳は立ち止まって、彼を見据えた。
「どうしたら帰ってくれるのよ」
 実佳が、溜め息を吐いた。
 辺りは静まり返っていて、全く人の気配がしなかった。
「じゃあ、キスしてください」
「はぁ?」
 突然の言葉に、実佳は顔をしかめた。
「キスしてくれたら、放してあげる」
 哲生の表情は、真剣に見えた。
「キスって……。あんた、あたしはその彼女じゃないのよ、」
 諭すように、実佳が言う。
「もっと自分を大事にしなよ」
「別に、もうどうでもいいですよ。だから、俺を慰めてよ」
 そう言って、哲生は実佳の背後の壁に手を着いた。
 彼はバレー部員にしては、ずいぶん背が小さいほうだし、体格もさして良くない。言ってみれば、実佳とそう変わらない体だ。
 しかし。
 恐い……。背中にあたる冷たい壁を感じながら、実佳はそう思った。
「してくれなきゃ、襲っちゃうよ?」
 少し口元を上げて、小声で哲生は言った。
「そんな事したら、蹴り入れてやるから」
 出来るだけ大きな声を出して、実佳は哲生を睨んだ。
 すると、彼は壁に着いていた手を放して、実佳の手を引いたまま歩き出した。
「冗談ですよ」
 哲生は力なく言った。
 しかし、握った手首は以前として放す様子を見せない。
「駅まで送ってくださいよ。一緒に居たいんだ」
 と小さく言ったまま、哲生は口を開かなかった。


  後 >>




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