2.アルコールとくゆる煙とブルースハープとウェディング -(4)


 目的地には本当に直ぐに着いてしまった。彼が手を離す。さっきまでいた居酒屋から、五十メートルも離れていない同じ通りにある店の扉を開けた。カランカラン、と低い鐘の音が鳴る。
 そこは、ジャズ・バーだった。入り口の傍から続くカウンターの壁にはびっしりとボトルが敷き詰められていて、店内の明かりはさっきの居酒屋よりもっと暗く落としたオレンジの間接照明。レジの前には外国のナンバープレート。その横にあるのは光沢を放つ像の親子の置物。カウンターの半ばには大きな碧い砂時計があり、さらさらと落ちるその流れは穏やかで一時間は持つのではないかと思わせる。異国の雰囲気の漂うBGMが、会話の邪魔にならないように薄く流れている。それに加え、どういう仕組みか判らないがろうそくの火のように揺れる光に照らされて、カウンターの背にある色とりどりのアルコールのボトルたちがキラキラと光った。
「ジュニアさん、モルト・スコッチをベースにお願い」
 カウンターにいる銀髪の若い男性が、了解、と返事する。そして、お連れさんは、とあたしの方を向いた。
「え、えっと、メニュー、見せて貰えますか」
 バーに来るのは初めてだった。あたしは慣れない場所でしどろもどろになりながら、座ったカウンターの周りにあるだろうメニューを探す。ジュニアさん、と呼ばれていた小柄な店員は、メニューなんてあったかなぁ、などと無責任な発言をしている。
「適当に頼めばいいんだよ」
 ハープ童子が奥にひとつだけあったメニューブックを取って渡してくれた。手作り感の溢れるその薄っぺらいメニューを開くと、そこには大きな文字でいくつかのお酒の名前が手書きの文字で書かれていた。だが、それは四、五個程度しか無いように見える。どういうことだろう。壁にはあんなに沢山のボトルが並んでいるというのに。それにさっき、ハープ童子が注文していたお酒の名前も見当たらない。
 困り果てて顔を上げると、ジュニアさんがシェイカーから浅いグラスにお酒を注いでいた。
「どんなお酒が好きですか。いつも飲んでるのは、カシス系とか」
「……杏露酒とか、白ワインとかです」
「じゃあ、果実系かな。炭酸は入ってない方がいいですか」
「はい」
 了解、と言って彼はすぐさま脇にあったボトルのひとつを取り上げた。迷ったり、悩む様子は無く、流れるような動作で腕を動かす。
「こういう店、よく来るの、」
 少し声を細めて隣に座るハープ童子に聞く。彼は、うーん、よくって言うかこの店だけだけど、と曖昧な答えをする。
 あたしはカウンターの中のジュニアさんの動きを見ていた。バーでお酒を創る姿を実際に見ることはこれが初めてだし、興味があった。ジュニアさんは最初に取ったボトルとは別のものを次々と手に取り、華麗な腕捌きでメジャーカップで計量し、シェイカーの中に混ぜていく。そして蓋をし、顔の位置へ持ち上げて大きな動作で上下に振る。これはよくテレビなどで見かける仕草で、子供の頃よく真似をしたがったものだ。下らないことだが、目の前で実際にバーテンダーがこの動作を行っていることに小さな感動を覚えた。ジュニアさんは直ぐにシェイクを切り上げて、あたしの前に置いた三角の小さなグラスに並々とそれを注ぐ。照明の加減ではっきりした色はわからなかったが、全体的にピンク色を帯びた、綺麗な色合い。
「どうぞ。お兄さんが女性を連れてくるなんて珍しいから、あなたにもかわいらしいお酒を」
 あたし、ただの同僚なんです。この人、結婚してますし。そう言いたかったが、止めた。その響きは何だか不倫を連想させる気がする。だって彼は、この店で顔馴染みになるくらいは通っている様子なのに、奥さんを連れてきたことはないみたいだ。
 急に、大きな音が店内に響いた。音のした方を振り返ると、クラシック・ギターを持った男性が椅子に腰掛け、俯いて弦をいじっている。黒っぽいハットを目深に被っていて、表情は見えない。隅に沿うようにして置かれたピアノには、頭にタオルを絞りシャツの腕を捲り上げた筋肉質な男性が。所狭しと傍に配置しているドラムセットの奥では、黒縁眼鏡を掛けたインテリ風のスリムな男性が。それぞれの楽器のチューニングを行っているようだった。カウンターの向かいに重なり合うようにして置かれた三組のテーブル席の奥が、どうやらステージになっているようだった。店の客は、七、八人程度。狭い店内の小さなステージで、何かが始まろうとしている。流れていたBGMが止まっていた。
 ドラムの合図で演奏が始まった。シンバルの、静かな波音に沿うようにピアノが乗っかり、ギターの弦が時折弾ける。店の、淡く暗いオレンジの光によく似合う、心地よいリズム。揺れる光に照らされたグラスのお酒がきらきらと光る。
 あぁ、そうか。光が揺れているように感じたのは、動く人の影だ。リズムに合わせて肩を揺らすギタリストが、ドラマーが、ピアニストが作り出している光りと影。
 続けざまに違った曲調の音を二、三演奏し終えた彼らは、何も言わずに手を休めた。店内にいた、疎らな客陣からの拍手でステージに幕が降りる。そのとき、隣の席の男が立ち上がり、ステージに向かった。おぼつかない足取りで、テーブルの角にぶつかりながら歩く彼は、いつかのようにポケットからハープを取り出す。片手に収まってしまうような、小さなハープを持つ彼は、ステージに辿り着くと同時にそれを口に咥えた。
 ハープ童子の突然のステージへの飛び入りに、驚く人はいない様だった。ジュニアさんも、他のお客さんも、さっきまで演奏していた三人組も、決まっていたことのようにごくごく自然にそれを受け入れている。黒いハットの男が、肩から降ろしていたギターを再び担ぐ。それと同時に、ドラムも、ピアノも、それぞれ定位置へ納まった。ギタリストが、ハープに合わせて弦を弾き出す。バックサウンドのように、ゆるく、ゆるく。そこにドラムのリズムが乗る。ピアノの旋律が入る。ハープはそれらに合わせるかのように、音色を激しく響かせ始めた。ゆったりとしたブルースの曲調から、テンポのいいジャジーな音にすり替わる。ピアノの男が、掛け声を掛けた。ドラムが、それに答えるように静かに腕を上げてスティックを回す。ハープが足踏みをして小さな店内をふらふらと歩き回り、ギターが片足を床に打ち鳴らす。
 幻想的な音とアルコールで酔いは一気に加速して、まるで異世界に連れて行かれたような気分になる。
 どきどきした。連れられて店に入る瞬間の、知らない場所へ足を踏み入れる緊張感。ジュニアさんがシェイクを振って創ってくれた、きらきら光るお酒をグラスに注ぐときの小さな感動。手を伸ばせば触ることの出来る、こんな至近距離での生演奏。そして、隣にいる同僚の突然のセッション。すべてが初めてのことで、鳴り響く鼓動が止まらなかった。
 演奏を終え、拍手の中戻ってきたハープ童子は、何事も無かったかのように静かに席に着いた。
「チェイサーちょうだい、」
 言うが早いか、ジュニアさんは彼の前に水の入ったグラスを置いた。それを、一気に飲み干す。ハープは息を使うため、喉が渇くのだろう。
「すごいじゃん。流石だね」
 あたしは自然と笑顔になって彼を見た。彼は、いつもの冴えないサラリーマンの表情のまま今度はスコッチのグラスに口を付ける。
「あの人たちとは知り合いなの、」
「全然。初めて見た」
 奥のテーブルについた演奏者たちは、カウンターから出てきたボーイにお酒を注文していた。ハープ童子の声には何の感情の起伏も見られない。カウンターの隅に置かれたジュークボックスの選択をしていたジュニアさんが、九州から来た巡業者たちだよ、と教えてくれる。再びBGMが店内に流れ出す。
「ねぇ、もうプロには戻らないの」
 勿体無い。素直にそう思った。まだ演奏は現役でやっているのに、表舞台に立つ気は無いのだろうか。こんな、小さな建設会社の営業で燻っているのは彼には似合わない。彼のゆったりとした口調も、基本的に無口なところも、鈍い動作も、人を振り回すマイペースで強引なところも、ブルースの音色にならぴったりと当てはまるような気がしたからだ。
 けど彼は、大きな溜め息を吐いた。声に出して。俯く。そしてそのまま床に向かって言った。
「ハープなんて所詮、過去の栄光だよ」
 それはまるで、いつまでもそんなものに縋ってちゃ喰っていけないの。と言っているようだった。



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