2.アルコールとくゆる煙とブルースハープとウェディング -(3)


 最近、電話の鳴る回数が増えた。
 メールは毎日彼氏としていたし、友人ともちょくちょく連絡を取り合う手段に使用しているが、電話が掛かってくることはあまりない。電話の着信音が鳴ると、会社からの休日出勤の依頼かと思い内心ドキッとしていたが、近頃鳴る時刻は殆どが夜中。会社からの連絡は休日の日中に来るものなので、非常識な夜中になんて掛かっては来ない。そもそも、勤務時間帯に管理職が掛けてくるため、午後六時を過ぎることはなかった。
 ハープ童子はいつも酒が入ってから電話を寄越した。呂律が回っていないわけでもないので、一瞬シラフかと思うがそうではない。人に電話を掛けたくなるのはアルコールが回っている所為かもしれないし、アルコールが入らないと年下の先輩になんて頼れないのかもしれない。もっと言うと、酒の所為に出来るからこそ、異性に電話を掛けれるのかも知れなかった。
 暖簾をくぐって店内に入ると、暖色の照明の先に彼の姿があった。こないだと同じ店、同じカウンターの一番奥で、やはり水割りを飲んでいる。
「今度は何の用ですか」
「杏露酒のロックでいい、」
 あたしの質問をまるで無視して彼は言った。すぐにおしぼりを持ってやってきた店員に、そのまま注文をする。
「こないだ飲んでたの、覚えてたんよ。偉い、」
 いつもと同じでゆっくりと平坦に喋る。けど、その科白は幼い子供が母親に褒めてもらおうとしている動作を連想させた。二十七にもなった大の男が、女性に甘えたがっている時ってこんなものなのかもしれない。そう思うと彼がちょっと可愛く思えてきて、偉い偉い、と同調してあげる。
 お酒と付け出しが来たため一口つまむ。目の前に置かれた灰皿はまっさらで、まだ煙草を吸った様子はなかった。今日の彼は、こないだに比べると酒の量は浅いらしい。
「契約、取れたの」
 仕事の話をプライベートでは出すまいとは思うものの、恋人でもない会社の同僚とふたりきりになって喋る話題はそう思い当たらない。このまま隣にいても彼の方から口を割ったためしはないため、無難で自然な話題をこちらから提供してあげる。
「取れたよ。程ほどにね」
 片手で水割りを揺らしながら彼は答えた。こちらを見ようとはしない。程ほどに、ということは、きっとまだノルマ達成までは行っていないんだろう。あたしは同じ営業課にいる先輩ではないため、そこを叱咤激励するつもりは毛頭無かった。ただの、会社の同僚としての会話をしただけだ。
「そっちはどうなの、」
「えっ。あたし」
 急に話題を振られて、吃驚して聞き返す。あたしの業務内容なんて説明しても、彼はきっと理解できないんじゃないかと思う。そして、彼や工事課の恋人に比べると、すごいとも大変だとも言われることが全く無いような業務だ。そんなことを思いながら、漠然とした言葉を口にした。
「別にあたしは、成績や会社業績に関係するような仕事はしてないしなぁ。ただ、回ってきた施工計画書の必要な材料を計算するだけで」
 ふーん。と彼は相槌を打つ。
「それって、面白いの」
 嫌味がある言い方ではなかった。心底、その業務の内容が想像できないから出てきた言葉。でも、あたしは答えに戸惑った。出来れば、自分の仕事に誇りを持った内容の答えを用意したかった。あたしの恋人が、いつも語って聞かせてくれるような答えを。彼の語る工事現場での愚痴ややり取りには、煙たがる言葉の裏にやりがいが感じられた。今日は現場監督が無茶言って大変だったよ、だの、クライアントから工期短縮の要請が来て二シフト分先に進めさせられた、だの、不満の感情で語っているその言葉には、自分はその要求に応えることが出来たんだよ、これだけ頑張って働いてるんだ、という誇りがありありと出ているのだ。
「別に、面白くは無いかな。仕事だから」
 あたしは、自分に自信が持てないのかもしれない。実際に口を吐いて出た言葉は、酷く味気無いものだった。
 同じような業務をしていても、あたしの訓練教官だった先輩は夢を持って業務内容を語り聞かせてくれたのに。あたしだって、自分の業務と言葉に自信を持って他人に語りたい。面白いと思う業務だって中にはある。先輩が打ち出したコスト削減のプロジェクトは提携会社を回って営業をし、各社の協力を得て成し遂げたものだった。そういった案を打ち出せるのはうちの課だけだろうし、関連他社への繋がりも発注を掛けている課であるため直接的な接触は多い。
 けど、それを他人に伝えるだけの語彙と力量が、まだあたしには備わっていない。
「ずっと、この仕事を続けるつもりなの。それとも、結婚したら辞めるの」
 そんなことは、あたしにも判らなかった。ずっと続けたいと思ったことも無ければ、辞めたいと思ったことも無い。でも、確実に言えることがひとつだけある。いまは、辞めて他の職を探すほどの体力も気力も無いし、結婚する予定はもっと無い。
「そんな事よりもさ、あんたの話しなさいよ。自分が誘ったんでしょ」
 あたしは自分の話題から逃れるように話の軸を戻そうと試みた。そもそも、戻る程の会話もしていなかったのだが。
「話すことなんてないよ」
 あっさりと彼は言ってのけた。話すこともないのに居酒屋に同僚を呼び付ける彼の心理があたしには理解できない。更に言うと、その本心を隠そうともせず相手に言ってしまうのだから更に理解に苦しむ。本当は、ただ家に帰りたくないだけなのかもしれない。否、若しかしたら、帰れないのかもしれない。
「あのさぁ、話すことも無いのに呼び出すのは止めてくれる。あたしは別にあんたと飲んでても楽しくもなんとも無いの。たまには得意のハープ聴かせてくれるだとかさぁ、面白い話のひとつやふたつくらい、提供しなさいよ」
 酒が少し回ってきたのかもしれない。あたしはわざと絡むような口調で押し黙っている彼を攻め立てた。彼は相変わらず水割りをちびちびとやっていた。あたしの悪絡みなんて、まるで聞こえていなかったかのように、静かに、ゆっくりと飲んでいる。あたしは溜め息をつきそうになって慌てて煙草に火を点けた。煙を吐き出して、心を落ち着かせる。
 正直、この人のことは苦手だ。後輩じゃなかったら、きっとこうして酒に付き合うことも無かっただろう。けど、人付き合いとは不思議なもので、苦手な同僚でも後輩という肩書きが彼にあったお陰で、誘いに乗ってあげてもいいと思えた。あたしは何で今ここにいるのだろう、と自問する。誰かに頼られることに、飢えているのかもしれない。
「出ようか、」
 唐突に彼が言った。言葉と同時に席を立ち、伝票を持って入り口近くのレジカウンターに向かう。あたしは慌てて彼の後を追って席を立った。椅子の背に掛けた薄手のジャケットを羽織り、足元の籠に入れていたバッグを手にして顔を上げると、もう既に彼は会計を済ませて暖簾の外にいた。
「どうしたの」
 足早に駆け寄ったあたしは、会計のことよりも先に疑問を口にした。お金を払うタイミングは完全に逃してしまったが、この人はいつも、そんなことは気にしない。
「行こう」
 いきなり彼はあたしの手を引き、国道沿いをぐんぐんと歩き出した。
「ちょっと待って、行くって何処へ」
「すぐ近くだから」
 道路の向かいにあるスーパーでは店員がシャッターを降ろす準備を始めていた。国道を行きかう自動車も、心成しか急いている雰囲気は無くゆったりと走っているように感じられる。交通量もかなり少ない。ここのスーパーの閉店時間は二十三時のはずなので、もうそれを回っていることになる。
 彼の手は冷たかった。それは、さっきまで水割りのグラスを持っていた所為かも知れない。



<<back |  | next>>
この世界の片隅で (C)2011 SAWAMURA YOHKO