2.アルコールとくゆる煙とブルースハープとウェディング -(2)


 休みが合わない週末でも連絡が来れば必ずと言っていいほど、あたしは彼と会っていた。彼の早出終わりや日勤後で、翌日が休みだったり遅番だったりと夜の時間がゆっくり取れる日には、大抵夕食のお誘いメールが来る。こんなときは、流石にスーパーに寄って食材を選んで更に調理をする時間が無いため、必然的に外食になった。
 夕食の誘いがあるということは夜の時間がゆっくり取れる日だということで、つまりはお泊りが計画の内に入っている。突然の訪問者を招き入れるのが苦手なあたしは、殆ど彼の部屋へ行った。彼も自分の部屋の方が落ち着く様子だった。それに、彼の部屋には何でも揃っている。最新のオーディオ機器も三十六インチの薄型テレビも広めのセミダブルのベッドも化粧道具もあたしの着替えも、ぜんぶ。もちろん、化粧道具や着替えはあたしが持ち込んだものだが、これがあるのとないのとでは寛ぎ感がまるで違う。確かに小さなアナログテレビしかないうちに来るより彼の家の方が何かにつけてグレードが上だということは認めるが、一番の決め手はやはり、彼の持ち物があたしの家にひとつもないということなのではないかと思った。一度、そのことを指摘したことがあったが、そうかもね、その内持って行くよ、と言ったきり行動を起こす気配は見せない。面倒臭いんだろう。わざわざあたしの部屋まで来ることも、娯楽が何もない場所で時間を潰すことも。
 今日は給料日だったため、ちょっと奮発した特別感を味わいたいという意見が一致して焼肉屋に来ていた。焼肉、といっても食べ放題の安いコースではない。高校生のときは質より量と思っていたが、流石にこの歳になってくると値段だけでは選ばなくなる。別に、高い肉を食べても違いがわかるような舌を持っていないのだが、何より胃袋が不当な量を受け付けなくなった。それに、焼肉は脂っこい。食べ放題というメニューはどうしても元を取らなければ損という心理が働いてしまい、無駄に食べてしまうため頂けない。制限時間が決められた中で、味わうこともなくただ胃袋を満たすためだけの食事をするくらいなら、多少高くても正規料金を払って時間を気にせずじっくり味わった方が得なのだ。
 あたしと彼はその辺の意見はよく一致した。食の好みもお腹が減るタイミングも考え方も、大方同じ。これは、中々いい傾向だと思う。以前、食の好みやタイミングが合わなければ一緒に暮らすことは難しい、と何かで聞いたことがある。実際、好みが違いすぎる所為で一度の食事で二つのメニューをこしらえているお宅があったが、あれはかなり手間も掛かる上に何より不経済だ。苦手なものを我慢して食べることは苦痛だし、食事は一日の中で唯一の会話の場でもある。楽しく食事を出来る要素が揃っていることは仕合わせなことだ。
「七千八百四十円になります」
 レジカウンターに伝票を持っていくと、座席番号を打ち込んだ店員が会計を読み上げた。食事代はいつも割り勘にしている。同じ会社の同期なので貰っている給料はほぼ同じだし、奢ったり奢られたりしない方が気軽に付き合うことが出来る。会計は、食べ放題メニューを選択したときより若干上回る数字だった。金額にして五百円程度。制限時間を気にせずに好きなものを頼めることを考えれば、上出来だ。
 持ち合わせが万券しかなかったあたしは、一万円札をレジカウンターの上に置いた。隣で財布の中を確認していた彼が、気付いたように言う。
「ごめん。給料まだ降ろしてなかったから、持ち合わせこれだけしかないや」
 そう言って、千円札を三枚取り出した。
 確かに、今日が給料日だからといって銀行やATMに必ず寄っているとは限らない。あたしが細かいお札を持っていなくて万券しか財布になかったのが降ろしたてだからという理由と同じことで、彼は逆に今月の生活費をまだ降ろしていなかっただけだ。
「じゃあ、細かいの持ってない、」
 あたしが聞くと、あぁ、それならあるよ、と言って四十円をカウンターの上に置いた。今度の食事は、俺が多めに出すよ。と彼が言う。
 お釣りを受け取り店を出ると、いつもの癖で足早に電車に乗る。気持ちは、少しでも早く家に着いて、少しでも長く寛ぎたいという思いへシフトする。
 あたしは、自分が千八百円近く多く払っていることが少し引っかかっていた。今度の食事で多く払う、と言った彼が多めに払ったことはたぶん一度もない。どちらかというと、今回のように持ち合わせが足りないことの方が多いからだ。あたしが支払いを催促しないのが悪いのかもしれないが、なるべく、人付き合いに於いてはお金でいざこざな雰囲気を持ちたくない。それは、相手が誰であっても同じだ。割り勘することに異議はないが、食べる量も飲む量もあたしより多い彼が、いつも少なめに払って「割り勘」の気分になられていることが気に障った。
 部屋に着くと彼は真っ先にテレビを点けた。意識的ではなく、ただなんとなくテレビの電源を入れてしまう人もいる。けど、今日の彼は目的を持って点けていた。画面では、サッカーの生中継が映し出されている。時刻は、日付を跨ごうという深夜帯。サッカーに興味のないあたしはどこの国での中継か判らないが、画面の向こうの国では昼間のようだった。
「もう始まってるじゃん、危ない危ない。見逃すかと思ったぜ」
 興奮した様子でテレビの前のソファーに座る。こうなると、暫く彼は動こうとはしない。あたしは冷蔵庫から麦茶を出して、水受けに伏せてあったグラスに注いだ。半分ほど飲み干して、その上からまた新たに追加する。
「はい」
「あ、ありがと」
 グラスをテレビの前の彼に渡す。彼は今気付いた様子でそれを受け取った。あたしはクローゼットを勝手に開けて、一番上の引き出しの中から自分の下着と着替えを取り出した。
「シャワー、先に借りるね」
 お決まりの行動パターン。別に、無理をしてあたしが彼と一緒にサッカーを見る必要はないし、シャワーもお風呂も毎回一緒に入る必要もない。お互いが、自分のしたいことをした方が遥かに効率的だし、時間の無駄が少ないのが現実なのだ。あたしたちはそれを知っていて、相手の行動に制限を掛けることはしなかった。それは、時間を共有していない時でも同じだ。誰かと遊びに行くこと、飲み会で遅くなること。そういったことを逐一報告しあうカップルもいるが、そんなことに意味は見出せない。所詮、相手の行動範囲すべてを把握することは不可能だし、喩え異性と遊びに行っていたとしてもその気持ちを制限することは出来ないのだ。それを制御したがるから息が詰まる。息が詰まるから外の世界が恋しくなって、囚われた鳥の如く籠の中から逃げ出してしまうのだ。
 それでもあたしたちは少しでも時間が空けば、こうして会うことが習慣になっていた。会うまでの間の、お互いの行動になんて触れないし、知りたいと思ったこともない。そんなことよりも、それぞれが同じ空間で一緒に時間を潰すことに意義があるように感じていた。
 シャワーから上がる頃、入れ替わりで彼が入った。あたしは洗面所で髪を乾かす。お風呂やシャワーは効率だけ考えると一人ずつ入った方が遥かにいい。一緒に入ってもお湯はそれぞれが同じ量を使うわけだし、シャワーもドライヤーも一本しかないため順番待ちが発生する。付き合い始めの初々しいカップルならそんな些細な不便はなんとも思わないかもしれないが、慣れてくると緊張感や熱情が消え、すぐ効率的な方へ走ってしまう。
 着替えを終わらせ化粧水をはたいていると、彼がシャワーから上がってきた。時刻は深夜二時に差し掛かっている。
「もう寝よっか」
 彼が言ってあたしも頷いた。電気を消して、ふたりしてベッドに入る。セミダブルのベッドは案外広くて、小柄なふたりが横になるにはちょうどいいくらいだった。大きく寝返りは打てないが、狭いとも感じたことはない。それ故に、身体のどこにも触れずに済んでしまう。
 寝よう、と彼が言ったときは本当に眠ってしまうときだった。あたしたちは一緒にベッドに入っても、セックスをしないことの方が多い。添い寝、と呼ぶにも抵抗がある。肌に触ろうともしないし、手を繋ぐことも、腕枕をしてもらうこともないからだ。
 頻繁に会っているつもりは無かったが、一ヶ月に三回程度はこうして部屋へ泊まっている。いつでも出来る、また次回がある、今日は疲れたからとりあえず眠ろう。そういった心理が働いて、性欲が掻き立てられることは無いのかもしれない。これは、同棲をしている知人からよく聞いた話だが、その感覚に近いのではないかと思った。あたしが催促しなければ、三ヶ月くらいは平気で開くのだ。
 突然、電話が鳴った。けたたましい呼び出し音。こんな電子音を彼は着信音に設定していない。あたしの携帯電話だ。着信音をメロディに設定しているのは彼の名前だけのため、それ以外の人から着信があると携帯電話の初期設定である大きな音が鳴り響く。
「アラーム、」
「ごめん、電話」
 慌ててベッドから起き上がり、テーブルの上に出しておいた携帯電話を取った。着信名を確認する。
「……もしもし」
 明らかにトーンを落とした、機嫌の悪い声を出してみた。電話の相手はいつものようにゆったりと喋る。
「今、何してるの」
「寝てたの。彼氏の部屋でね」
 敢えて誤解を招くような言葉を選んで、真実を言う。それで気まずくなるような相手ではないし、彼には状況を判って貰う必要があった。
「あ、それはそれは。申し訳ない」
 言葉とは裏腹に、感情の起伏が全く感じられない声で言う。
「今、何時だと思ってるの」
「知らない」
「二時だよ、深夜二時。もっと常識ある行動してよね。もう切るよ」
「なに。怒ってるの」
 通話ボタンを押して回線を切った。いつものように、彼は酔っている様子だった。酔っ払いは常識が無くなるから相手にしていられない。
「誰だったの」
 彼がベッドで上体を起こしていた。あたしは何でもないことのように、さらりと答える。
「会社の後輩。営業課の」
「営業課の、」
 怪訝な声で聞き返す。あたしが施工課にいるため、不思議に思ったのかもしれない。
「うちの課、営業課とは交流が多いんよ。ほら、課長が元営業課出身だから」
 あぁ、そういえばそうだったね。と彼は関心の無い声で言った。それよりも、もっと肝心なことが聞きたいんだよ、と言われている気分になる。
「今の電話、ハープ童子だよ。ほら、以前話したことあるでしょ」
 昔テレビで見たことあるよね、という話題で彼と喋ったことがあったはずだ。その時は交流がまだそんなになくて、連絡先を知っているという話まではしなかったはずだが。
「ふーん。何の話か知らないけど、オフの時間のこんな夜中に電話を寄越すなんて、非常識な野郎だな」
 彼はそれ以上何も言わず、元通りベッドに横になった。声は穏やかで、特別感情のある様子もない。
 けど、あたしは詰問されているような気分になった。別に、疚しいことは何もない。それでも彼氏の部屋で、ましてや一緒に布団の中に居るときに別の男から電話が掛かってくること自体が罪に思えた。これがもし、セックスの最中だったらどうするだろう。その時は、電話を取らないかも知れないが、後から着信履歴は確認するだろうし、その時点できっと今と同じ流れになる。
 彼の機嫌が悪くなったように感じるのは気の所為かもしれない。けれど、それは至極当たり前のことだった。



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