2.アルコールとくゆる煙とブルースハープとウェディング -(1)


 突然の電話の呼び出し音に驚いて慌てて通話ボタンを押すと、あいつの声が聞こえてきた。
「今、暇ですか」
 暇、なんて答えさすのは失礼だとは思わないのだろうか。思わないから言うんだろうな、なんて思いつつ回答する。
「別に暇じゃないけど。どうしたの、」
 電話の相手は隣の営業課の後輩・ハープ童子だった。
 会社の人を渾名で呼ぶことなんて実際は無い。でも心の中で密かに、あたしは彼をこの名前で呼んだ。渾名の由来は、彼の経歴からきている。あたしが入社二年目の春、新入社員歓迎会で自己紹介と一発芸をしなければならなくなった彼は、突如ポケットから一本のハーモニカを取り出した。そして何の前触れも無く、それを吹き鳴らした。宴会会場は一瞬にして、静寂に包まれた。聴いたことの無い楽曲。聴いたことの無いメロディライン。彼の奏でた音色は、子供騙しなハーモニカなんかではない。ポップミュージックのギターデュオが、サビのフレーズで鳴らす軽快なリズムのそれとも全く違う。有名な曲名でなくとも、その場の全員を聞き入らせる腕と魔力がある。深くて、少し陰のある音。
 後から知ったことだが、それはブルースハープだった。彼は幼き頃、天才ハープ童子と呼ばれ、有名なブルース奏者の世界ツアーに同行し前座を務めた経歴もあった。その頃、日本のテレビ番組でも何度か取り上げられており、一躍時の人となったことがあるのだ。
 言われてみれば、小学校に上がるかどうかの年齢の頃、テレビで自分より少し年上の小学生が世界で活躍しているというニュースを見た記憶がある。彼の年齢があたしより二つ年上なのも、記憶と合致した。世界を相手にしていること。ブルースという、音楽の中でも子供には理解しがたい、大人の世界で生きていること。子供心に、敵わないなぁ、カッコイイなぁ、と思ったものだ。
 そんなハープ童子は、今は全く覇気の無い声音で受話器越しに喋った。
「駅前の焼き鳥屋さんで待ってますんで、今すぐ来てください」
「はぁ、今すぐって、あんた」
 電話は既に切れていた。文句をつける暇も無い。
 営業課と施工課は事務所が隣同士、ついでにうちの課長が元営業課出身だったということもあって、何かにつけて交流が多かった。毎年新人が配属されるわけではない施工課にいるあたしにとっては、お隣の営業課の後輩という存在は一番身近に感じられる後輩でもある。
 そんな営業課の後輩である彼は、何故か度々、このような突然の呼び出しを押し付けた。基本的に、会社の後輩からの頼みは断ることは無い。こうしてわざわざ先輩を誘うということは、何か相談事や悩みがあるからかもしれないと考えるからだ。違う課のあたしに頼ることも、同じ課内だと言い辛い愚痴があるかもしれないし、若しかしたら男性ではなく女性に聞いて貰うことによって癒しを得ようとしているのかもしれない。理由がそのどれであっても、構わないと思った。それに、そもそも親しい後輩の少ないあたしが後輩に呼ばれることなんて、滅多に無いことなのだ。
 理不尽な呼び出しにも関わらず、あたしは帰宅して寛いでいた部屋着を脱いで身支度をした。彼の言う駅前とは、あたしの家の最寄りのことではなく会社の近所の駅のことを指すため、到着までに暫くの時間を要する。時間はもう二十時を回っていたが、そんなことは気にしない。呼び出したのは、あっちの方なのだ。こんなことは、初めてではなかったが、そう頻繁にあるわけでもなかった。頻度で言うと半年に一回程度。そのため、心底怒る気持ちにもならない。
 この地域限定の焼き鳥屋チェーン店の暖簾をくぐると、カウンターの奥でハープ童子の姿を見つけた。手には焼酎のグラス。テーブルの枝豆の皮と空いている皿の様子を見ると、もう二時間程度はここで飲んでいた様子だ。
「今回は、なんの相談ですか」
 隣の席に腰を掛け、わざとらしく丁寧に問いかけた。店員がおしぼりを持ってやってきたので、杏露酒を注文する。
 泥酔している彼は、えー、と語尾を延ばして気だるげに言葉を紡いだ。
「別にぃ、相談なんてないよぉ」
 言葉が、タメ口になっている。そのことにきっと彼は気付いているが、直そうとはしない。多少、引っかかるものを感じたが、後輩でも年上だということもあって社外で会うときに敬語が抜けても、あたしの方から正そうとしたことは無かった。
「ちょっとね、一緒に飲んで欲しかっただけ」
 焼酎の水割りを追加して、ハープ童子は言う。
 色白の皮膚は全く変化を見せず、いつもの様に長すぎる前髪の隙間から細い目が覗いている。酔っているかどうか、傍目には判りにくい彼だが、肘は二つともテーブルに着いているし、灰皿には吸殻が二、三本見えた。この人は、喫煙者ではない。余程アルコールが入らない限り、自分から吸い出すことは無いのだ。つまり、今日は相当飲んでいることになる。
 杏露酒のロックをスローペースで飲みながら、付け出しできた煮物をつついた。煙草に火を点ける。煙を吐き出し、グラスに口を付ける。灰が長く伸びて、煙草を押しつぶす。
 その間、ハープ童子は一言も口を割ろうとしなかった。あたしは軽く苛立ちを覚えたが、グッと堪える。
「営業ノルマ、今月も到達しそうにないの、」
 詰問調に聞こえないように気を付けながら、敢えてなんでもないことのようにさらりと聞いた。彼は、自ら進んでバリバリと仕事をこなす方ではない。口下手で、動きもどちらかというと鈍い。営業職なんて全く向いてないんだろうなと、あたしでも思う。
「そんなこと、もうどうだっていいよ」
「よくは無いでしょ。だってあんた、今月落としたら来期分の給料減額でしょ」
 あたしは少し声を荒げた。営業課は普段の手当てが厚い分、ノルマに到達しない月が三ヶ月連続すると、次の半年間は給料が何割か低くなる仕組みだ。彼が先々月からノルマに到達していないということは、風の噂で聞いていた。
「よく知ってるね。厭だね、噂好きな人が多くってさ」
 諦めたような物言いで、グラスの酒を流し込む。
「おねえさん、水割り」
「じゃなくて、お冷ください。ふたつ」
 カウンターの奥にいる店員に向かって言う彼の声に被せるようにして、水をオーダーする。冗談じゃない。このまま酔い潰れた男の面倒を見るのはごめんだ。
 彼はあたしの行動に文句を言う様子もなく、出された水を素直に手にした。
「息子さん、もうすぐ小学校でしょ。これ以上給料下がったら、食ってけないじゃん」
 元々、大して貰ってないんだから。と云う言葉を含ませる。そして、当たり前のことに気付いた。
「もう十時半だよ。こんなとこで油売ってないで、家帰って奥さんと会話でもしたら」
「いいよ、会話なんて。普段してるもん」
「まだ新婚じゃなかったっけ、結婚したのいつよ」
「去年。でも、子供いるし」
 売り言葉に買い言葉とは、こういうことを言うのかもしれない。彼と、真剣に会話を成立させようとする方が莫迦なのだ。
 奥さんはいくつか年上だと聞いた。交際期間は一年ちょっと。結婚願望が強そうには見えなかった彼が、こんな早くに結婚するとは思ってなかったもんで驚いたものだ。当時、二十六歳。男性でも決して早い年齢ではないが、何故か彼はいつまでも独身でいるタイプに見えていた。その彼が、一年足らずしか付き合っていない女性と結婚した。しかも相手は子連れで、子供の年齢は五歳という。自我の確立した年齢の子供といきなり親子になるのは、どういう心情なのだろう。お互いに、気を遣うのではないだろうか。ましてや、彼が奥さんと付き合い始めた頃すぐに子供を紹介されていたとしても、その時点で既に四歳。もう、自分と他人が違う人間だってことくらい、理解できる年頃だ。それでも結婚を決めた彼には、見た目には判らない強く大きな愛があるのかもしれない。否、あったからこそ一緒になったんだろう。
 そう、思っていた。少なくとも、最近までは。
「お子さんと、上手く行ってないの、」
 本当は、奥さんと上手く行ってないのかもしれない。言葉には出せなかったが、そんなことを思いながら聞いた。
 彼は、いつも沈黙した。答えたくないなら、答えなくてよかった。他人の家庭事情なんて、判らなくて当然だ。ただ、彼には家庭の不調和の言い訳を子供の所為にはして欲しくなかった。赤の他人のあたしが思うのは、身勝手かも知れない。でも、こんなこと、生活を共にする前から判っていたことでしょ。それを承知で結婚したのは、他でもないあなた自身なのだから。



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