セックスをした翌日の出勤は、いつも気だるかった。理由は判らない。けど、身体の中でいつもと確実に違う場所がある。あそこに、ずっとアレが入っているような感覚が残るのだ。残尿感のようなものなのだろうか。この感覚は、丸一日消えてくれない。他の女性も同じなのか。それとも、何か原因があるのか。経験の乏しいあたしは、他の相手と比べようが無いため判らない。前に付き合っていた人とは、大して何もせずに別れてしまった所為で、殆ど覚えていないのだ。こんなこと、他の女友達にも聞いたことが無いから、謎は永遠に謎のままだ。 「休憩しよっか」 向かいのデスクに座る先輩が声に出して言ってから、立ち上がった。はっ、とあたしは顔を上げる。休憩なんて、連れ立っていくものではないし、彼もいつもは無言で席を立った。つまり、あたしがぼんやりとしていることを見抜かれたのだ。気が付けば、事務所内には先輩とあたしのふたりしかいなかった。課長が席を外していてよかった、と思いながら足早に先輩の後を追って廊下に出る。 広くも無い支店のビルには喫煙ルームはひとつしかない。小学校の校舎の様な、滑り止めの付いた灰色の階段を上がり、通路の奥にある狭い倉庫のような部屋のドアを開ける。多く見積もっても、せいぜい畳二帖分のスペース。ドアはアクリル張りで外が見えるためそこまでの圧迫感は無いが、五人も入れば手を上げることも出来なくなるような狭さだ。 その狭い空間に、呼び出されるように来てしまった。ここは、一種の説教部屋とも呼べるかもしれない。 先輩が、ワイシャツの胸ポケットからボックスケースを取り出し火を点けた。パッケージには濃紺のラインが入っていて、端に小さく1mgと書かれている。 「お前、最近暗くないか。なんか悩みでもあるんか」 先輩の口から飛び出した言葉は、意外なものだった。 業務に集中出来ていないのは自覚していたし、近頃は自分に向上心や意欲が湧いてこないことにも気付いていた。この部屋に誘われたのは、てっきりそのことを指摘されるものだと思っていたから、予想外の言葉に面食らってあたしは眼を瞬いた。 「何の、お話でしょう、」 可笑しな受け答えになる。目の前の大柄の男は、はぁーっと大きな溜め息と煙をはき捨て、利き手で短い頭髪をガリガリと掻き毟った。 「お前ね、俺をナメとるやろ。何年面倒見てきてると思っとるねん」 基礎材料の計算と発注を担当している彼は、あたしより四年先に入社していて、課内ではひとつ違いの先輩になる。そして、この課に配属されたときにマンツーマンの新人訓練担当としてあたしについてくれたのが、先輩だった。 「……マンツーマンのペアリングはもうとっくに解消したものだと思っていました」 「おーおー。言ってくれるねぇ、まだ瓦屋根業務一本のクセに」 イタズラにニヤリと笑う。それを見てあたしはワザとらしく膨れっ面を作ってみせる。 先輩は所謂、仕事のデキル男だ。若くして数々の業務を経験し、そのどれもをそつなくこなすだけに留まらず、何らかの業績を残してきた。効率の改善や大幅なコストカットの提案により、本社からの表彰を受けたこともある。そんな偉大な先輩が学歴の所為でこのキャリア組とは縁遠い施工課事務をやっているのは癪なところだ。それでも彼は、この仕事がすきだという。他の奴らがやりたがらない仕事を地味に続けていけることは、誰にでも出来ることではない。と、新人時代のあたしに教えてくれた。誇りを持って仕事に取り組む先輩はあたしの憧れだったし、今なお目標とする先輩社員のロールモデルだ。 それに、先輩は容姿も理想的だった。適度な長身にガタイのいい肉付き、広い背中。寝癖も付かないような黒の短髪に、男らしさを際立てる整った無精髭。昔は社内きっての男前だった、という話はよく耳にする。本人は近頃腹が出てきたのを口実に否定しているが、今でも充分いい男だと思う。入社時、先輩に奥さんがいてよかった、と思ったものだ。だって、年は五つ違い、仕事は出来るし容姿端麗。オマケに新人訓練担当の所為で、四六時中行動を共にする。こんな素敵な男性が傍にい続けられれば、恋に落ちてしまう確立の方が高い。でも奥さんがいたお陰で、純粋に先輩を憧れの人として見続けることが出来て、会ったこともない彼女に感謝をしているぐらいだ。 短くなった煙草を押し潰した先輩は、二本目を取り出して火を点けた。 「仕事の悩みか。それとも私生活で上手くいってないことがあるんか。俺でよかったら言うてみぃ」 少しぶっきら棒な言葉遣い。これは、あたしが言いやすいように態としてくれている。あたしは少し考えた。悩みって何だろう。悩みなんて、あるのだろうか。 不満が無いといえば、嘘になる。上手く行かない仕事も、義務的なデートを重ねているプライベートの恋人関係も。けど、それらに具体的な悩みがあるのかどうか疑問だった。ただ漠然とした感覚。もやもやすること。何がいけないのか、このままでいいのか、自分でも判らない。 「彼氏、おるんやろ。割りと長いこと付き合ってる。相談とかしてるか、」 知らない人を指すような感覚。この人は、あたしの恋人が同じ会社の同期だということは知らないみたいだった。別に、相手が誰だか知らないからといって何でも言う気になるわけではない。でも、少しだけ、心が緩む気がする。ほんの、少しだけ。 「彼とは、あまり話さないんですよ」 「肝心な話を、か」 「……そうですね」 先輩の言った肝心な話とは、つまりはきっと結婚のことを指すんじゃないかと思った。二十五歳。入社五年目。付き合って二年。別に、仲が悪いわけではない。これだけ見れば、世間は結婚の二文字を押し付けたがる。けど、あたしたちの会話の中で、その二文字が登場することは、ほぼない。 「お前、いま、仕合わせか」 核心を突いた言葉。 悩みなんて具体的には何も無い。けど、幸せかどうかと問われれば、不幸せな気分になっていることは確実だった。 返す言葉に息詰まっているあたしに、先輩は軽く笑って言った。 「せや、来週末、空いてるか。結婚式がてら、みんなで大阪に一泊旅行するんやけど、お前も一緒においでや」 結婚といえば、隣の営業課にいる先輩の同期の方だ。大阪出身で言葉はキツイ大阪弁なのに、意外にも大人しい。大阪弁を喋っている人はみんなテレビに出ている芸人のようなイメージを抱いてしまうが、それは間違いだということを改めて感じさせられた。あたしは新人時代、先輩について回っていたもんで、仕事でもアフターファイブの飲みの席でも、先輩の同期の方々にはよくしていただいたものだ。 「結婚式ですか。いいですね」 おめでたいことだと思う。素直にお祝いしたいと思った。それに、憧れの先輩たちと同僚みんなで違う土地へ一泊するなんて機会は滅多に無い。新鮮な体験は、きっと今までと違う気持ちにさせてくれる。 そう、たぶん先輩が意図した通りの、リフレッシュ効果が得られるかも知れない。 少なくとも、このまま仕合わせかどうかを問われて返す言葉に詰まるような人生を、送りたくは無かった。 |
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