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夜間用救急出入り口から、慌てた様子の女が病院内へ駆け込んだ。 非常用蛍光灯しか点いていない院内の廊下は、先が見えない程長く冷たい感じを漂わせている。 薄明りの広い廊下には、人影が一つしか見当たらなかった。 女は、待合い用の長椅子に腰を降ろした作業服の青年に小走りで近づいた。 「あの、私、先程救急車で運ばれたと聞いて来た子供の母親の野堂妙と申しますが、息子の宇多は、」 続け様に喋る彼女に、青年、看板屋は、静かに言葉を添えた。 「幸い、命に別状は無いようです。今は、奥の部屋で寝ています」 「そ、そうですか、」 妙は、肩の力が抜けた様子で、弾んだ息を整え始めた。白のシャツに茶色のロングスカートを身に付けてた、年の頃三十を少々越えた女性だ。 妙は、一呼吸して胸を落ち着けてから、廊下を見渡し、そして顔を上げて看板屋を見た。 「俺は、迷子カードを見てご連絡した、看板屋のチカです」 「あなたが……。本当に、有り難うございます」 訊かれる前に名乗った看板屋、チカに、妙は深々と頭を下げて礼を云った。 「本当に本当に、有り難うございます」 繰り返して云う妙に、チカは、暫く検査の為病室へも入れませんから、と云って椅子を勧めた。二人は、暗く広い廊下の冷たい長椅子に、一人分の間を置いて、並んで腰を降ろした。 夜間の院内は、何の音も響いておらず、この建物の中に入院患者や、夜勤の看護士などがいるとは思えない程静かだった。 妙は揃えた膝の上に重ねた両手を乗せ、チカは作業着のポケットに両手を突っ込んで背もたれに体重を預けて、黙り込んでいた。 そうしてどれぐらいの時が経った頃だろうか。不意に、チカが口を開いた。 「野堂さん。あなたは、知ってましたか」 妙が、弾かれたように顔を上げ、隣にいるチカを振り返った。 「何をです、」 「息子さんの躰のあちこちに、絆創膏が張ってあったことを」 妙は怪訝な顔つきで、ええ、まぁ、と答えた。 チカは彼女を一瞥して、続けた。 「あの絆創膏の下の傷、見たことありますか」 妙が、チカの顔を凝視する。口を開きかけたまま、暫くそうして青年の横顔を眺め続けて、「いいえ」と妙は云った。 「公園で、転んだり打つけたりした程度の軽い傷だと云っていたものですから……。嘗めておけば治る、と私は云ってましたけど、あの子は何か処置をしたがっていたので、絆創膏を使わせていました」 妙は、一言一言、思い出しながら言葉を継ぐ。 「でもそれが、そんなに酷い傷だったなんて、」 表情を濁す妙に、チカは淡々と口を挟んだ。 「傷なんて、元々無かったのですよ」 「え、」 「あの絆創膏の下には、何も無いのです」 惚けたような声を上げる妙に、チカは二度、繰り返して云った。 妙は、狐に摘まれたような表情で、チカを見ている。そんな妙を横目で見て、チカは続けた。 「あなたの息子さんの宇多君、今回は滑り台の天辺から落ちた、と云う事でしたけど。実は昨日も、ジャングルジムの頂上から落ちてるんですよ」 驚いた表情をする妙に、チカは、その時は自分が受けとめたので大事には至りませんでしたが、と付け加えて云った。 「普通の子供なら、そんな事があった翌日には、同じような処へは登らないものだと思いませんか」 チカは、向かいの院内の壁を真っ直ぐ見据えている。 妙は、俯き加減になりながらも、じっと、喰い入るように彼の横顔を眺め続けていた。 「家庭にはそれぞれ事情がありますから、部外者の俺なんかが云える義理じゃないっスけど。……あなたは何故、今日も、昨日も、多分その前日も、宇多君を公園まで迎えに来なかったんです、」 妙を直視してではなく、壁の一点に視線を向けたまま淡々と問うチカは、妙が最初に彼を見て感じた年齢よりずっと年上なのではないか、と思わせた。眺め続けていた青年の横顔では、言葉を云うのと連動して、耳に付けたプラスチックのピアスが規則正しく揺れていた。 「あなた、専業主婦ですよね」 チカの、確かめるように云った言葉に、妙は、ええ、と頷いた。そして妙は、彼の横顔から視線を外して、膝に置いた自分の両手を見ながら、怖々と、小さく口を開いた。 「あの時間帯は、悟史……主人が、会社から家に戻る頃なんです。仕事で疲れて、帰ってくる頃なんです。ですから、私が家にいないと、」 脳の中にある語彙から、単語を拾い出すように、妙は続けた。 「それまで、午後から、ずっと、待ってるんです。だから、あの時間帯は、主人が戻るまで家にいないと。家にいて、出迎えてあげないと。……淋しい思いを、するでしょう、」 少しだけ額を上げて、上目遣いのような姿勢で、妙はチカの表情を窺った。その眼差しは、同意を求めているようだった。 チカは、そんな妙を一瞥する事もなく、壁に視線を遣ったまま応えた。 「それは、宇多君も一緒なんじゃありませんか」 妙はその言葉に、びくっ、と肩を震わせた。 「絆創膏で傷を偽造していたのも、遊具から落下する自虐行為も、みんな、淋しい思いをしていたからなんじゃないっスか。……母親が、自分に関心を向けてくれないから」 淡々と詩を朗読するように言葉を継ぐ青年の隣で、壮年期の母親は眼を大きく見開いて、彼を振り返った。 塗料に塗れた作業着を着た青年は、怒るわけでもなく、微笑むわけでもなく、ただ平素のままの表情で病院の長椅子に座っていた。その表情は、陽が落ちてからも独り遊具で遊ばなければならなかった、幼児の顔を連想させた。 大きく見開かれた妙の眸は、瞬きをすることもなく、沈黙したチカを、訳も無く見続けていた。 やがて、その眼の周りに、雫が溜まって、眼球を歪ませた。それは、長い間瞬きをしなかった為、眸が訴えた渇きの所為だったかも知れない。 「……本当の処は、俺には判らないっスけどね」 長い沈黙の後、立ち上がった青年は、椅子に腰を掛けて肩を狭めている女性を見て、そう云い残した。 空は、うっすらと雲の掛かった水色。 足下に落ちる影は、薄墨で伸ばしたように輪郭をぼやけさせ、並んだ影と調和して優しく溶け合う。 公園は、変わらず子供たちや主婦で賑わっている。夕暮れになっても独り公園に残っていた子供が、救急車に乗ってから丸一週間が経過した。 検査入院を終えた子供は、それまでと変わりなく笑顔で、陽の下を近所の子供たちと戯れていた。 午後の公園には、普段通りに、子供たちのはしゃぎ声が響き渡り、幼児を連れた母親たちの世間話は弾んでいた。そして、陽が傾き始めると、小学生たちは順に公園を立ち去り、幼児たちには迎えの母親たちが訪れた。 そして。 夕暮れ時。少し大きめのT-シャツにハーフパンツを履いた、年の頃、四、五歳程度の男の子と、桜色のシャツに鶯色のロングスカートを身に付けた三十を少し越えた程度の年齢の母親が、手を繋いでいる姿があった。 全体的に薄く雲の掛かった空は、強い橙色の夕陽の色を薄めてくれ、ぼやけて混ざり合う二つの影はリズム良く上下に動いた。 まだ、子供たちの声が少しだけ残っている公園を、二人は出入り口に向かって歩いた。 公園の入り口近くにある砂場の脇を、通り過ぎる。 その側には、真新しい標語札が立てかけられていた。その標語札の側には、空缶が幾つも入った、金網の屑籠が置かれていた。 |