飲んだらあなたの手で屑籠へ 1 




 夕方になってもまだ、その子供は独り公園に残っていた。
 年の頃、四、五歳程度。少し大きめの半袖T-シャツにハーフパンツを履いた、男の子だった。
 公園は、集合住宅地から少々脇に逸れた場所に位置し、向かいには印刷工場が建っている。昼間は、その集合住宅に住む子供連れの若い主婦が集まり、夕暮れ近くまでは小学生くらいの子供たちで賑わっていた。しかし、陽が落ちると公園の周辺には人気が無くなり、印刷機械のごうん、ごうん、と云う無気味な音だけが響く場所になる為、公園は急速に淋しい場所になっていた。
 その日も、夕暮れ近くまでは近所の小学生や砂遊びに励む幼児たちで公園は賑わっていた。だが、陽が傾き始めると小学生たちはちらほらと解散し始め、幼児たちには母親が迎えにやって来た。
 一人、また一人と公園を去って行く中で、その子供は独りで彼らを見送り続け、そして遂に最後の一人になった。しかしそれは、その日に限ったことではなかった。その子供は、前日も、そのまた前日も、ずっと、最後の一人だった。
 空が橙色に染まり、子供の影が細長く縦に伸びていた。鉄棒も、滑り台も、鞦韆も、ジャングルジムも、ソメイヨシノも、全部、細長く伸びていた。空の果ての、山脈の峰では、紫色に染まった雲が夜を連れてくる準備をしていた。
 その頃、一人の青年が入り口から軽い足取りで公園の中へ入って来た。
 年の頃、十代の半ば過ぎ。白っぽい繋ぎの作業着の上半身分を腰の辺りで留め、頭には大縞の手拭いを額から項に掛けて縛っている。手拭いの間から所々覗いている髪は、切り損ねたような半端な長さで、光の当たり具合で黒と栗色の斑に成っていることが判った。その髪の隙間から覗く両耳には、対でないピアスが留まっている。日本語ロゴの入ったT-シャツを捲った作業着の下に着ている青年は、普段着なら中学生程度に見える小柄な体格だ。
 青年は、入り口の近くにある砂場の脇に立て掛けられた、ベニヤ板を眺めていた。板は、彼の身長程もの高さがあり、裾の左右に一本ずつ足が付いている。青年が、その板の表面を左手の薬指で軽くなぞるように撫でた。まだ何も描かれていなかったが、それは、標語札だった。あらゆる色の塗料の斑点になっている作業着を着たその青年、看板屋は、昼間下塗りを施した板が完全に乾いているのを確認すると、夜を持ち越す為それをビニールですっぽり覆った。
 その間も、まだ子供は独りで公園にいた。
 子供は、鞦韆に乗ったり、鉄棒にぶら下がってみたり、滑り台を滑ったりしていたが、どれも長続きせず、すぐに飽きた様子で次々と遊具を移り変わっていた。最終的に次の遊具が無くなると、また最初の遊具に戻って同じような行動を繰り返していた。
その行動は事務的かつ機械的で、それらをこなす間の子供の顔は実に淡々としていて、無表情だった。特別それが楽しいからしている風でもなく、逆に詰まらなさそうにしている風でもなく、ただ仕事のように、淡泊にこなしている。
 看板屋は、板をビニールで覆っている間、陽の落ちかかった公園で独り遊ぶ幼児をちらちらと盗み見た。
 よく見ると、子供は躰のあちこちに絆創膏を張っていた。その年頃の子供なら、よく動き回る年齢ゆえ、擦り傷などは日常茶飯治だろう。しかし、その子供の絆創膏は随分と歪に張られていて、張っている場所も何となく不自然だった。
 看板屋がいる事に気づいているのか否かも、子供の様子からは窺い知ることは出来ないが、子供は自分の仕事に集中して作業をこなし続けており、その姿勢が崩れることは一寸足りとも無かった。
 暫く、順繰りに遊具を移動していた子供が、不意にジャングルジムに登った。
 それ迄も、他の遊具と同様にジャングルジムにも触ってはいたのだが、子供はジャングルジムに足を二、三段掛けて周りを一周していた程度で止めていたので、上を目指して登ったのはこれが最初だった。
 ジャングルジムは、大きい正方形と小さい正方形とが二つ重なって置かれているような外形をしており、足を掛けられる骨組みはもっと細かくあるが、大まかには二段構造になっていた。この公園のジャングルジムは、それほど高いものではなかったが、それでも他の遊具の高さに比べれば断然高く感じた。それは、幼い子供にとっては特に強くその違いを感じた筈で、実際に一段目までは登れても、頂上の二段目までに足を掛けられる子供はそう多くは無かった。
 その子供は、それ迄一段目以上には足を伸ばしていなかったが、今回はその次の段へも足を掛けた。そして、もう片方の足も、躊躇いも無く順調に次の段へと運ぶ。
 そして遂に、頂上の二段目まで登り切った。
 前回までは一段目以上は登ろうとしていなかったため、看板屋はその子供も頂上までは登れないものだと思っていたが、今回は実に軽々と登り切ったため、どうも今までは、登れなかったのではなく、登らなかったのだ、と思った。
 頂上に到達した子供は、そこでゆっくりとバランスを取り、足下の鉄棒を掴んでいる両手を離した。その周りには、捕まるものなど、何も無い。
 空間に宙ぶらりになった掌は、ひらひらと風を掴んだ。そして、狭い鉄棒の格子の上を、不安定な姿勢で歩き出した。踏み出す足の速度はスローモーションで、子供の顔は相変わらず無表情だ。
 その子供は、わざとのろのろと足を動かしている様子だった。安定を保つためには、速度を上げた方がいい事など、まるで知っているかのような顔をしている。
 そうして子供は、そのまま風を掻いて、宙を蹴った。
 落ちたのだ。
 それも、ごく自然に、当たり前のように。
 そして、その子供は、助けられるのを知っていたかのように、相変わらずの無表情のまま、看板屋の腕の中にいた。
「大丈夫か、お前」
 慌てて駆けつけた看板屋は、不自然な態勢のまま、何とか受けとめた子供の顔を覗き込んだ。
 子供は、相変わらず無表情のまま、沈黙していた。
 驚いて声が出ない、と云った様子ではなく、ただ口を開かなかった。
「あんな処で手ェ離したら、危ないだろ」
 少々、諭すような口調で看板屋は喋り掛けた。
 子供は、相変わらずそのままの表情で、自分に語り掛ける青年を開いた両目でじっと見ている。
 看板屋は、腕の中の子供をそっと足から地面に降ろした。
 子供は、その間もずっと、色の無い眸で彼を見続けた。
「お前、家帰らないのか。すぐに夜になるぞ」
 そう問い掛けた看板屋に背を向けると、子供は公園の外へと、駆けて行った。
 振り返ることもなく、急激にこの場を去った子供の後ろ姿は、直ぐに工場の角を曲がって、見えなくなった。
 看板屋は、暫くその角を眺めていたが、子供が再度姿を見せることはなく、空は群青色に染まった。