●●● 朝の彼女とコーヒーと ‖ 前 ふと気付くと、いつものように目覚ましが鳴っていないことに気付いた。 何故、目が覚めたんだろう。 何だか布団が温くて、優しい息遣いを夢の中で感じたから……。 まだ外は薄暗いらしい。 カーテンの隙間から漏れる青い影を眺めて、時計を盗み見た。 明朝五時半。小鳥たちが起き始める時間だ。 俺はもう一眠りしようと、寝返りを打った。 「うわぁあッ」 振り返った途端、叫び声を上げて俺はベッドから転げ落ちた。 すぐに、自分の姿を確認する。 助かった。どうやら服はちゃんと着ている。 しかし、これは一体……。 冷や汗が首筋を伝うのを感じながら、息を飲み込む。 眼の前のベッドの上に、女の子が眠っているのだ。 誰だ……。 全く持って、覚えがない。 昨日自分は、一体どこから彼女を連れ込んだんだ。 しかも、事もあろうことか、一緒に寝ていたなんて……。 俺は頭を掻きむしって記憶を辿ってみたが、ひとかけらも現状の続きを思い出せなかった。 夜のうちに、何が起こったのか、自分が何をしたのか、何も判らない。 でもこの状況を見る限り、服を着ているからといって、何もしなかったとは言い切れない。 俺は覚えていないことを少しだけ後悔した。 「んん……」 少女が寝惚けたまま布団を引き寄せる。 そして、彼女は眠たそうな目蓋をうっすらと持ち上げた。 ぼやけた視界に、俺の顔が入る。 俺は、どうしたらいいか判らなかった。ただ、どうしようかと、気持ちで慌てた。 「……おはよう」 彼女は少し微笑んでそう言い、もう一度寝返りを打った。 まるで、日常のように。 何故、何も反応を示さない? 寝惚けているのか……。 「あのさ、」 俺はベッドの反対側へ回って彼女の顔を覗き込んだ。 「どうしたの、」 眠そうに返事をする少女は、自分より随分幼く見える。 「君は……? 何でこんなとこにいるの、」 我ながら間抜けな質問だと思った。 もしかしたら、俺が彼女を自分の部屋に連れ込んだのかも知れないと言うのに。 俺が困った表情で覗き込んでいるのを見て、彼女は小さく笑った。 「何おかしなこと言ってるの、」 彼女が、布団の上で薄いシースルーの上体を起こす。 「何で居るのかって、あたしと寝るのが厭だった?」 「寝る、って……。寝たのか、俺と一緒に、」 俺はますます慌てた。 見たところ、自分より年下と言うより、彼女は十四、五歳程度の幼い少女だ。 これじゃあ、犯罪じゃないか。 「もう、どうしたのよ」 彼女は可笑しそうに笑って言った。 「あたしたちは夫婦なのよ、」 「えッ、」 俺は惚けたような声を上げた。 夫婦…って、一体何を言ってるんだ、この娘は……。 冗談を言っているのか。俺は彼女の顔を見上げてみた。 少女は、不思議そうに俺を見返している。 じゃあ俺は、結婚していることになるのか。この幼い少女と……? 放心状態の俺を放って、彼女はダイニングへ立った。 かちゃかちゃと音を鳴らしながら、水場で朝の支度をし出したようだ。 「やっぱりさ、おかしいよ。君は十六歳位…なんだろ、そして俺は……」 「二十一。大学生よ」 彼女は、俺の事を知っていた。 そりゃ、記憶のない間に、いろいろ喋ったかも知れない。 それにしても、やはり変だ。 俺はアルコールは飲まない質なのに。記憶が飛んだ理由は一体なんなのだろう。 「君さ……、本当は家出人なんじゃないの」 「違うわよ。あんたってば、たまに喋ったかと思うと変なことばっかり言うんだから」 少女は全く気にしていない。 俺の解せない気持ちも、そして彼女によると『夫』である俺のそっけない態度も。 もし、本当に俺が記憶喪失か何かになっていたとして、彼女と結婚していたとしたら、俺は普段こんなに彼女に冷たくしていたのだろうか。 「正海、聞いてるの」 少女の声に、一瞬びくっとして振り返った。 「マサミ、って誰だ」 少女は急に顔をしかめた。 「何言ってるの、あんたの名前じゃない、」 「俺の名前、…そりゃ人違いだ。俺にはちゃんと名前が……」 俺は笑って返した。 やっぱり、俺は記憶喪失なんかじゃない。 これではっきりした。彼女は人違いをして、この部屋に上がり込んできたのだ。 だって、俺にはもっと堅苦しい名前がついてる。 「どんな名前があるって言うのよ」 彼女が詰め寄る。 俺は口を開こうとして、そのまま固まった。 判らない。 自分の名前が思い出せない。 「正海は正海よ。自分の名前を気に入ろうと厭だろうと、親が付けたものなんだもん。そう決まってるのよ」 俺は側の壁に立てかけてあった自分の鞄の中を探った。 教科書やノートをひっくり返して、片っ端から表紙を捲る。 無い、無い、無い。 何処にも署名をしていない。俺は几帳面な男ではないらしい。 「何探してるの、」 彼女がやってきて俺の側にしゃがみ込み、何かを拾った。 「これ?」 眼の前に、免許書が差し出される。 オキタマサミ、21才。 端には、鏡に映った俺と同じ顔がプリントされている。 「……ああ、ありがとう」 俺は慌ててそれを受け取り、床にばらまいた本を鞄の中に詰め直した。 沖田正海。 この男は、確かに自分らしい。 何だか違和感を感じるが、免許書の文字とそこに映った写真とを見比べてみると、そう親しみの無い名前でもない気がする。 ふと、ダイニングから苦い香りが漂って来た。 顔を上げると、少女が莨をくわえて水場に立っている。 「莨なんか吸うんだ」 「駄目だったっけ、」 少女が俺を見つめる。 「いや、別に」 少しだけ嘘をついた。 本当は、酒と莨は絶対にやらないと誓ったほど嫌いだったのだが。 「なあ、」 俺は思い直して、彼女と向き合った。 何だか解せないことばかりだが、莨の匂いと水場に立っている彼女を見て、何だか今はそんなことは気にしなくてもいいような気がしてきたのだ。 そして、自分のことより、俺の妻だと名乗る少女の事が気にかかる。 「えっと……」 彼女の名前を呼ぼうとして、自分がそれも覚えていないことに気がついた。 俺は一瞬戸惑ったが、小さく呟いた。 「何て呼べばいい、」 彼女はコーヒーメーカーを手に、優しく微笑んで答えた。 「あたしは檸檬よ。覚えやすい名前でしょ、」 彼女は、嘘かジョークか判らないような顔で言った。その、地方のソープ嬢のような響きの呼び名を。 そうか。 何だか騙されている様な気分だ。 彼女は本当に俺の妻なのかも知れない。でも、昨日一日だけ俺がレンタルした夜の店のスタッフかも知れない。 どっちにしても、とりあえず今日は悩まなくていいようだ。 ここは俺の家だし、彼女は少なくとも今日一日は俺の妻、そしてこれから授業に出て大学の仲間に聞いたら、昨日何があったか全部判るはずだ。 「はい」 彼女が、俺の前にコーヒーを差し出した。 俺は手を伸ばして湯気の立つカップを受け取ったが、飲む気はなかった。 何故なら、俺の家にあるコーヒーは来客用で、実のところ俺はコーヒーは飲めない。 酒や莨が駄目なのも同じで、俺は基本的に苦いもの、辛いもの全般が駄目なのだ。要するに、大人の匂いのしない、甘党なのだ。 俺はカップから立つ香りを少し匂って、テーブルにそれを置いた。 「俺はコーヒーが好きなの、」 檸檬が背を向けたまま、間延びして答える。 「毎朝時間が無いからって、一杯だけ。あんまり好きじゃないみたいだったけどね。ただ……」 「ただ?」 「……あたしの莨の香りと合ってる、って云ってシュガーをたくさん入れて飲んでるじゃない、」 そうだったのか。 シュガーをたくさん入れて、と云うところが俺らしくて頷ける。 自分の名前も思い出せないぐらいの重症だ。 やっぱり俺は、『ここ』に住んでいたのかも知れない。 「ねぇ、大学行かなくていいの。もう時間だけど」 「あ、うん。ありがと」 俺は身なりを整えて狭い玄関に立った。 「正海、」 檸檬が呼び止める。 「本当に大丈夫なの。今日のあんた、なんか変よ、」 本気で心配している表情。 俺は苦笑いした。 「正直なところ、いろいろ思い出せないことが多くて参ってるんだけどね。でも、仲間に会えば多分治るよ」 「違うわよ、そうじゃなくて……。今日のあんた、何だか別人みたい。普通の男みたいにいっぱい喋るんだもん」 いつもは、俺は口数の少ないクールな男なのか。 彼女の不安そうな声を聞いて、俺も何故か不安になる。 俺の知らない俺は、いつも彼女にどんな態度を取っているというのだろう。 「きっとここに、戻ってきてね。もう会えない気がして……」 切ない顔。幼い彼女が、とてもかわいく見えた。 俺は、何と答えたら云いのか判らなくて、玄関に突っ立ていた。 すると、檸檬が俺の両手を握り、背伸びして唇を少し重ねた。 ほんのりと、莨の匂いがした。 「あたし、優しい正海も大好きだから」 俺は、よく判らないまま何度も何度も頷いた。 「じゃ、いってきます」 慣れない外国語を喋るようなぎこちない調子で云って、俺は腫物のような感触の残る唇を押さえ部屋を後にした。 前 後 >> |