●●● 朝の彼女とコーヒーと ‖ 後 考えてみれば、一夜を共に過ごしたくせに、あんな触れたか触れなかったか判らない程度の軽いキスを意識するなんて、俺もおかしなもんだ。 こんな男が、本当に昨晩女の子と一緒に寝たのかと思うと、随分疑わしい。 俺は昼休み、同じ講座の友人と昼食を取ることになった。 「お前、彼女とうまくいってるの、」 「え、」 突然切り出されて、俺は思わず友人の顔を見返した。 「お前、俺の彼女のこと知っているのか、」 「当たり前だろ、自分が云ってたんじゃないか」 「俺が……」 俺は気を取り直して、友人に訊いた。 「どれぐらい、どんなこと云ったっけ、」 「そうだなぁ、俺が訊いたことといえば、彼女はだいぶ年下で、恥ずかしくてなかなか面と向かって話せない正海に対して勿体無いくらいよくしてくれる……ってことかな」 何だか、やけに判りやすい構図だ。 それにしても、こいつの供述によると、俺はクールな男ではなく、単なる照れ屋なだけらしい。 そんな照れ屋な俺が友人にここまではっきりと話しているのだろうか。 「お前、それちょっと色付けて云ってるだろ」 俺は疑いの眼差しを友人に向けた。 「そりゃ、普段のお前の性格をふまえて云ってみただけさ」 友人は笑った。 「図星だったんだろ、」 俺も、笑顔で返した。 「多分な」 人間とは、実に勝手なものだ。 不思議と俺は、自宅の電話番号は覚えていた。 自分の名前や、妻の存在さえ忘れてしまっていたくせに。 どうでもいいことだけ、しっかりと記憶しているようだ。 呼び出し音が何度かなって、受話器が上がった。 「俺だけど」 「正海? どうしたの、」 檸檬の驚いた声が聞こえる。 俺は腕時計を見下ろした。午後八時。 「もう夕食、食べた?」 「まだよ。正海は食べてきたの、」 「いや。冷蔵庫に何もなかったと思ってさ、」 大した料理は作れないが、今日は檸檬と二人で食卓を囲んで、ゆっくりと物語を聴きながら過ごしたい、と思っていた。 俺のことだ。 どうせ今まで彼女に、大したこともしてやれなかったはずだ。 「何か買って帰るからさ、少しだけ待っててくれよ」 「判った。待ってる」 檸檬が嬉しそうに答える。 日常とは少し違う風景。 そうしてきたのは、俺のせいなんだろうな、と思ってみたりして、少し胸が痛かった。 でも、これからは大切にするよ。 日常も、ちょっとした出来事も、友人も、さぼっていた授業も、君も。 全ての俺の記憶を大切にしたいよ。 今日、記憶が飛んだことで、もどかしさの中に普段の小さな幸せの価値ってやつが判った気がするんだ。 きっと誰かが、普段の生活に幸せを見いだせなかった俺に、それらの大切さを教えてくれた気がするんだ。 もし俺が、普通の学生と同じようにまだ独り身で、地方上がりの粗忽者で毎日を過ごしていたとしたら、きっと気付かないような小さな喜びってやつを。 俺は近所のストアーで自分のできる料理の材料を買って、弾む気持ちでアパートの階段を上がった。 オキタ、の表札の前で、呼び鈴を鳴らす。 檸檬の笑顔を想像して、俺は少しだけ冷静さを装う。 しばらく経ってから、もう一度呼び鈴を押す。 そして、もう一度。 「檸檬、」 俺はだんだん不安になってきた。 急いで鞄の中からキーを取り出して、ドアをこじ開ける。 「檸檬」 もう一度、静まり返った2LDKに向かって彼女の名を呼びかける。 返事は返ってこなかった。いつまで経っても。 玄関には男物の靴が一対。 奥の部屋には、散らかった机と、起きた時のままのよれたシーツの掛かったシングルベッドがのぞいている。 ダイニングに吊るした洗濯物は、LLサイズのシャツにトランクスが一枚。 夢を見ているのかと思った。 今日知ったばかりの幼い少女に、騙されたのかと思った。 俺は、何処から見ても男の一人住いのアパートの一室で立ち尽くしていた。 最初から何も無かったのか……? 今朝は騙されててもいいと思っていたのに。 でもそれは、ずっと昔から好きだった女性に振られたようで。 やっと判った小さな幸せが、幻となって俺の前から消え去ったように。 自分の知らない状況を突然押しつけられても、周りからそれが真実だと聴かされたら、それが俺なんだと信じる事ができた。 俺の名前がマサミだという証拠を見せられたら、自然に親近感が沸いた。 一夜で作り上げられた虚像の世界でも、生きていけると確信していた。 レモン、だと名乗る年の離れた女を本気で自分の妻だと思えるほどに。 思いやりと偽りの嘘を付けるほどに。 今日のこの日を、信じていたのに。 全ては、今日一日の物語なのに。 誰かが作り上げた人生でも、嘘で固められた真実でも、それが自分にとって幸せなら構わない。 だから、もう一度今朝からやり直したいよ。 もう一度君に会いたいよ。 もう一度、君の声が聴きたいよ。 ダイニングテーブルの上には、絶対に俺が飲まないコーヒーが置かれていた。 今朝、俺が残した、彼女が注いでくれた、冷めたコーヒー。 俺は、戸棚からシュガーの入った瓶を取り出して、何杯も何杯もカップに入れた。 いくらかき混ぜても、見た目は何も変わらない。 そして、相変わらず俺の苦手な苦い味は消えていなかった。 水場からほんのりと匂う、莨の匂い。 少女の残り香。 大人の匂い。 それは、ごく当たり前の日常の、小さな幸せの香り。 << 前 後 |