01  流れる日常と、本当の気持ち  >> 01




 ナシコちゃんは元々、忙しい人だった。
 歳は俺たちの中で一番若いけど、俺や杏子ちゃんのような呑気な学生ではなく、大学を卒業したのに定職には就かずぷらぷらとしている朋久とも違って、職を持っていた。以前、アパートのコンセントの調子がおかしかった時に、偶々訪ねてきたナシコちゃんがそれを直してくれたことがある。女の子らしからぬ特技に驚いた俺たちに、ナシコちゃんはこれが本職だから、と云った。契約社員としてこの地に移り住んで一年。中学を出て技術系高等専修学校を卒業したナシコちゃんの職種は、電気工事士。朋久と出会う切っ掛けとなったファミレスのウェイトレスは、本職の合間にやっている、週何回かのアルバイトだった。
 日中、電気工事の仕事をし、週末の深夜から明け方までの数時間をファミレスでのバイトに当てているナシコちゃんが家に来るのは、頻繁に来ていても、週一。一番良く来て、二回が限度だった。それでも初めて家に来た日から今まで、二週間以上の期間を置いて顔を見なかったことはない。ナシコちゃんは朋久に逢いに来ているのだが、家に上がったときは必ず俺の部屋に挨拶に寄ったし、俺はというと滅多なことが無い限り外出をしなかったので、ナシコちゃんの訪問時には大抵家に居合わせていた筈だった。
 ナシコちゃんが泊まっていき、その翌日に杏子ちゃんが現れてから、半月程が経過した。その間、宵の口の朋久の外出は以前よりも増し、杏子ちゃんも週に二回程度は家を訪れた。訪れた、というよりは、朋久が連れて来ていた、と云った方が正しい。ナシコちゃんは、来なかった。週末になると大抵、家に寄っていたものだったが、それは跡絶えてしまった。やはり、そういう事だったのだろうか。朋久が、来るなと云ったのだろうか。どっちにしろ、それは自然の摂理なのだろう。今までだって、そうだった。期間は違えど、朋久が新しい女の子を連れてくるようになってから、それまで来ていた女の子が再度訪ねてくることはなかった。今回だって、同じだ。また、繰り返されるのだ。杏子ちゃんは、俺の部屋を覗くことはなかった。杏子ちゃんの訪問を知るのは、狭いアパートの玄関の扉が開く音と、二人分の声が聞こえてくること。その声はいつも、大抵楽しそうに弾んでいる。俺は、遠い世界のノイズを聞いているような気分になる。薄い壁一枚を隔てただけの隣の部屋から時折聞こえてくる音が、杏子ちゃんのものとも、朋久のものとも、思うことが出来ない。家に籠もったままで、人とのコミニュケーションから疎遠の俺は、会話と云うものが成立しているのは何故だろう、などと考えて、それが現実のヒトの会話行為だと云う事に気づかない振りをした。
 杏子ちゃんが訪れた最初の日から、三週間が経過した頃。俺は、久しぶりに外出をした。家の中で、只ごろごろと同じ本を繰り返し読んでいるだけの生活をする分には、身嗜みなんて構う必要はない。毎日くたくたのジーンズを履いて、六月も中旬を過ぎたため、上は着る必要もなくなった。髪を整えることもなく、昼近くになって起き上がった寝癖のまま、一日を過ごす。歯を磨くとき洗面台に向かうと、目前に映し出された鏡には、鬱陶しい空気の漂う男が立っていた。最後に剃ったのはいつだか判らない髭が顔を覆い、寝癖だらけの髪は地毛の黒のまま、眼に掛かっている。しかも半身裸体。ヤベェ。この恰好が、悪いのだ。そんな姿で過ごしていては、生きる気力さえなくしてしまう。やっとそう思えた俺は、散髪をしに隣町の美容室まで出ることにしたのだ。
 最近は、一年前に比べて随分と予定が減ってしまって、自ら進んで外に出よう、と思わない限り、外出する切っ掛けはなかった。大学は案の定卒業できず、大学四年生三回目の春を迎えてしまった。スーパーのレジ打ちのバイトは、新しく入った子が沢山シフトしだしたため、俺は殆ど出る必要が無くなった。バイト先にいることが少なくなったため、月に一度のシフト申請日にも予定表を出し忘れ、そうしている内にシフトすることは無くなり、在籍名だけの存在になった。人が居なければ電話が掛かってきて駆り出されるものだが、今は充分人数が足りていて、シフト申請していない者にわざわざ電話するほど、店は暇じゃない。俺が居なくても、誰も困らない。店は今まで通り、廻るのだ。そう思うと、やる気は失せてしまった。元々、金に困っていたわけではない。どこにも出掛けなければ、隔月で振り込まれる奨学金と、親からの仕送りで充分生活できる。大学はというと、取り落とした単位の分しか行かないため、月に数えるほどしか授業が無かった。つまり、スケジュール通りに生活していれば、俺は月三、四回しか外に出る必要はなかった。
 だらしなく伸びきっていた髪は、生え際近くまで短くカットし、ついでに髪色も暑苦しく見えない様、薄い色に変えた。華奢な美容師から差し出された鏡に映っている人間が、別人に見えた。髪が軽くなって清々しい気分になると、いろんなことが思いついた。最近、台所使ってないな。カップ面ばかり食っていたからな。冷蔵庫の中、ビールと烏龍茶とマヨネーズしか入ってなかったよな。料理でも、しようかな。と、今までの生活態度からは思いも付かないような真面目なことを考え、俺は帰り道のスーパーに寄り、食材を購入した。空は丁度、宵闇が掛かり出していた。




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