●●● 01 流れる日常と、本当の気持ち >> 02 お帰りなさい、と玄関に入るなり云われた。同居人がそんな言葉を発するはずはない。女の子の声。帰宅すると、家にはナシコちゃんが居た。ぉお、久しぶり、と俺は戸惑いながら言葉を返した。朋久は卓上の前に座って、ナシコちゃんを急かしている。台所で、鍋が噴いた。どうやら、ナシコちゃんはご飯を作りに来てくれたらしい。外出なんて、珍しいですね。若しかして、もう食べてきちゃいました。菜箸で鍋の中を突きながら、ナシコちゃんは俺に聞いた。俺は左手に下げたスーパーの袋を指して、珍しくこれから作ろうと思ってたとこ、と答えた。ナシコちゃんが、コンロの火を止めた。味噌の匂いがする。お椀に飯が注がれ出して、俺は買ってきた食材を入れるため冷蔵庫を開けると、半分程は既に埋まっていた。ナシコちゃんが持ってきたものだろう。俺も朋久も料理は得意じゃない為、冷蔵庫は一人暮らし用の小さいものだった。普通に二人分買ってくると、入れる場所が無くなる。それでも、二人で暮らし始めてからの六年間、特に困った思いをした記憶はない。まともに料理をしたことは、殆ど無かったからだ。 実に久しぶりに、白い飯と味噌汁の付いた食事を採った。普段は、インスタント食品が主流だったため、特に美味しく感じられた。否。実際、料理は旨かった。ナシコちゃんは、何でも出来る気がする。仕事も無く、家の電気配線の修理も、料理も、一人暮らしも出来ていない俺たちからすると、自分は歳だけ食ってきたように思えてくる。人生に於て、無駄な経験なんて、何一つ無い。勉学も、大事だ。けど、高校を出て、大学に行っていても、肝心の生きるための術を持たないようでは、意味が無い。 食事を終えた俺は、食器を流し台に運んで洗い物をはじめた。直ぐにナシコちゃんも隣にやってきて、自分がやると云ったが、客人に調理をさせておいて自分は食っているだけでは俺の道義に反するため、結局いっしょに皿洗いをすることになった。朋久は、何食わぬ顔で居間を立ち去った。二つ並んだ内の、向かって西側の朋久の部屋から、テレビの音が聞こえた。家には、各個人部屋にはテレビがあるが、居間には置いていない。訪問者に度々、不便だと云われるが、それは仕方ない。それぞれが持っているにも関わらず、わざわざ居間用にテレビを買うほど裕福ではなかったし、それに敢えて二人揃ってテレビを見るようなことも滅多になかった。片付けが終わるとナシコちゃんは、朋久に挨拶をしていく、と云って西側の部屋へ消えた。俺はすることもなかったので、自分の部屋に入り、何時ものようにラジオを付けて、昔揃えた漫画を一から順に読んでいっていた。そうしている内に、何時の間にか寝てしまったらしい。少し寒さを感じて起き上がると、時計の針は頂点を廻りかけていた。ラジオからは、フュージョン・ジャズが流れている。朋久が寝ているかも知れないので、ボリュームを下げ、少し遠慮がちに引き戸を開けた。便所へ向かおうと、居間を静かに横切ったとき、真っ暗な隣の部屋から、僅かな音が漏れた。思わず、立ち止まりそうになる。けど、静かな足取りのまま、洗面所のある玄関の方へ歩みを進めた。それは、とても小さな音だったけれど、確かに聞こえた。半音高い、女の声。言葉ではない。背筋が、ぞくっとした。十八禁のアダルトビデオで、よく聞くような女の声だった。玄関の靴を確認した。見慣れた、レザーのブーツがあった。声の持ち主は、ナシコちゃんだった。 驚くことは、無いのかも知れない。今までだって、こういう状況に居合わせたことは、何度だってあったはずだ。実際、以前の彼女のときも、似たようなことはあった。俺が偶々、居間を横切ると、声が聞こえてくる事くらい。けど、ナシコちゃんは俺のよく見知った相手で。朋久の連れだということは判ってはいたのだが、どうしても二人がそういう関係だと云うイメージには結びつかなかった。それに、朋久には杏子ちゃんがいる。その事に、兎や角云う訳ではなくて。ついさっき、台所に立っていた女の子が、隣の部屋で裸になっている姿を想像することは、リアルじゃなかった。 俺は、無慈悲ではない。ナシコちゃんが、杏子ちゃんのことを知っているのかどうか、気にならない訳ではない。多分、十中八九、知らないのだろう。けれど、これは結局、朋久の問題なのだ。俺の問題では、ないのだ。若しかしたら、杏子ちゃんとはもう別れてしまったのかも知れない。ナシコちゃんの事がすきなのに、何故こうなってしまったのかと悩んでいるのは、朋久かも知れない。だから俺が、首を突っ込むわけにはいかないのだ。 |