プロローグ


 暑い夏の昼間には幻想がよく見えたものよ。と目の前の包帯女は以前云っていた。グレーのストライプのブラウスは半袖で、細かい花があしらわれたスカートも膝丈で、それはまさに夏の装い。しかし、女は顔の周りを除く全身に白い包帯を巻きつけていた。涼しげなブラウスから覗く少し太めの二の腕も、スカートの膝下から除く白い脚も、肌が見えるはずの部分にはすべてに於いて白すぎる包帯しか見えないのだ。まるで包帯に巻かれたミイラのお化けが服を着ているようだ、と少年は常々思っていた。
 今は、黒のツーピースにチャコペンシルで印を打っている。ジリリリリン、と大きな音で電話が鳴った。女は当然のように動こうとはしない。作業台に向かって、黙々と手を走らせている。少年は手にしていた黒のワンピースをそっと傍に置き、電話台へ向かった。電話番は、少年の仕事に決まっているからだ。
「はい、宮崎です」
 アイボリー色した丸い受話器を持ち上げ、いつものようにこの家の苗字を名乗る。電電公社の電話帳には店の名前として登録していたため、電話は個人の用件より仕事の依頼の方が遥かに多い。そのため、電話番を任されている少年は少なからず実年齢よりは達者な言葉遣いと声音でテキパキと喋れるようになっていた。
「宮崎、五於さんのお宅でしょうか」
「はい、そうでございます。ご用件をお伺いしてもよろしいでしょうか」
「五於さんは居られますか、」
「はい」
「キミは、五於さんの弟さんかな。お姉さんはいくつくらいかな、」
 この相手は明らかに怪しかった。そもそも、宮崎家は婦人服を専門に仕立てているのに、男性からの電話という時点でおかしい。少年は息を吸い込んでキッパリと答えた。
「五十九歳の僕の義母ですけど、替わりましょうか」
 何も云わずに電話は切れた。若い女性宛への悪戯電話だったようだ。
 世の中では電話の普及に伴い、テレホンクラブというものが流行っているそうだ。電話帳を闇雲に捲り、女性名に見える番号には片っ端から電話を掛ける、という手法でのアダルトな出会いを求める輩がいることは小学生でも知っている。近頃は不景気で仕事の電話など滅多に無かった。日に何度か掛かってくる相手は、大抵がこのような悪戯電話か新聞や宗教の勧誘ばかりだ。
「またイタ電、」
「そ」
 少年は元の座布団に座りなおし、傍に置いていたワンピースを手に取って作業の続きを始めた。白の、仕付け糸をするすると抜いていく。
 ほんの一年前までは、この工場にしている部屋ももっと活気に溢れていた。縫い子さんと女が呼ぶ従業員も数名出入りし、少年は奥の部屋で宿題をする合間に電話番をしていればそれでよかった。しかし、気が付けば日本の経済は崖が崩れ落ちるかのように急激に暴落していた。当時、小学校低学年だった少年でも何が間違っていて、何が正しいのかくらい判別は出来た。今までが、おかしかったのだ。町には次々とビルが立ち並び、中身が充実していないにも関わらず飛行船を飛ばして町中に派手な広告をして廻る。開店祝いに立ち並んだ客には無条件に粗品と呼ぶには豪華すぎる金品を手渡す。銀行では来店の度に新しい外国の有名キャラクタータッグもののタオルやポーチを配り、行列に並ぶ人々にはポケットティッシュやハンカチが手渡される。こんなことをして、一体誰に何の利益が生まれるのだろう。こんなことをしていては、いつか全てが廻らなくなる。それくらいのこと、子供にだって理解できたのに、高度成長期を青春時代に駆け抜けた今の大人たちにはそれすらも理解できないほどに脳みそが溶けてしまっていたのだろう。
 はた、と仕事の電話が鳴らなくなってからも、暫く女は割りと呑気に構えていた。少年が「貯金ってしてるん」と聞いたときにも平然と「するわけないじゃん」と女は答えた。だって、仕事なんていくらでもある。手を動かせばいつだって満足する金額が手元に入るものだ。そう、信じて疑わない様子だった。少年は、女が手元にモノが残る買い物が好きだったことがせめてもの救いだ、と心底思った。戸棚の中には数回しか使われた形跡の無いブランド物のバッグが数十点眠っている。いざとなれば、あれを質に出せば少しは凌げるのではないかと考え、高をくくることにした。
 マンションの窓から見える風景は、見る間に変化を遂げていった。先月建ったばかりの高層ビルは入る店舗が無くなり倒産、解体業者が外壁を壊しに掛かったが三割も行かない内に費用が尽きてそれらは打ち切られ、目の前にはただの廃ビルが列を成すように並んだ。町の様子が目まぐるしく変化を遂げ、漸く呑気な女の生活にも転機が訪れた。雇っていた従業員全てに解雇を言い渡し、今まで受けてこなかった外注の仕事も少年の説得により少しずつ取るようになった。
 こうしてふたりきりで作業を始めて数ヶ月が経っていた。子供嫌いを宣言していた女は、下校後、同じ部屋で一緒に居る時間が多くなった少年に昔話や利己的な思想を気紛れに喋った。
「アンタ、うちの兄さんの名前、知ってるよね」
「邦男伯父さんやろ」
「そう。でも兄さんの本当の名前は等二って云うのよ。あれは里子名なの」
「何それ」
「うちの村では古いしきたりがあってね、長男は幼少期が過ぎるまでは里子に出すのが当たり前だったのよ」
 へぇ、と少年は曖昧に相槌を打った。邦男という名前は何度も女やその親戚の口から聞いたことがあったが、等二なんて名前は聞いたことが無い。
「じゃあ伯父さんはいつ頃家に帰って来たん」
「尋常小学校卒業年次って聞いたわ。うちはまだ生まれる前の話やから、よぉ知らんけどね」
「じゃあ、十二歳まで里親の元で暮らしてたん、」
「違う違う。尋常小学校ってのは四年間やから、卒業時の年齢は十や。今の小学校とは制度が違ったんよ」
 ふーん。とまた少年は曖昧に相槌を打った。何だかピンと来なかった。けど、若しかしたら女は今の少年の境遇を指したかったのかも知れない。
「うちもなぁ、あと一年早く生まれてれば中学校に行けたのに」
 これは女の口癖のようなものだ。教育改正の行われる境目の年で義務教育を終えてしまったらしく、ひとつ年下の学年の子たちはみんな揃って新生中学校に入学し、新たな九ヵ年の義務教育を終えたらしい。
「あれはねぇ、大東亜戦争の時だったかなぁ。峠をひとつ越えてね、隣村の親子がうちに来たの」
 戦争、と聞いて、少年は目の前で喋る女の皮膚を思い出した。女の包帯の下は、皮膚が焼け爛れたように膿んだケロイドで見るも無残な状態であることを知っている。少年にとってそれは、戦争、原爆、を連想させる皮膚だった。だがそれは、女が天性で生まれ持った病の所為であって、戦争とは無縁なことも知っていた。
「若い母親がね、幼い子供を抱えてやってきたのよ。一晩泊めてください、って云うからね、うちの姉さんが快く母屋の客間に泊めてあげたの。翌朝には、当時貴重だった卵を両手に握らせてあげてね、」
 女の話には兄や姉は登場するが、父や母が登場したことは一度も無かった。兄は里子に長い間行っていていなかった経緯からか、はたまた年齢が離れているのか詳しくは判らなかったが、どうもこの姉というのが家族の全決定権を握っているのは間違いない。
「でもね、その翌日に母親が連れていた子供がうちに戻ってきたのよ。あれはね、間引きだって兄さんたちは云ってた。食料が無かったんだろうね。うちが見ず知らずの人に卵なんか持たせたから、食べ物に困らない家だと思って子供を置いていったんだよ」
 その子供が、女が随分可愛がっていたといつも話しているすぐ下の弟に繋がるのだと、少年は気付いた。
「その子、口が利けなかったからね。名前はうちが付けたんよ」
 この話も、何度か聞いたことがあった。
「眼がくりくりした可愛い子だった。でもね、みんなが末っ子やからて可愛がって甘やかしすぎたんやろうね。可哀想なことになったんよ」
 包帯女は少し眼を伏せた。少年は、この人に付けられた自分の名前を思い浮かべていた。それは、女の皮膚を爛れさせている原因でもあった。同時に、女の話の中で頻繁に出てくる恐ろしさの象徴のようなものでもある。
 これはきっと、一種の呪いのようなものなのかもしれない。と少年は思った。
「あれもちょうど、こんな暑い八月のことやったわ」
 針子仕事をしながらいつも女は退屈凌ぎに昔話を語った。女の話は大抵が小国民と呼ばれた国民学校に通っていた頃のもので、でも殆どが学校や戦争の話なんかではなく、恋や祭りや友人やそしてちょっと不思議な出来事の話だった。作り話なんかが出来る器用な人ではない。それらはきっと、何らかの記憶と掏り替えられたか、若しくは原因があって欠損した想い出のひとつなんだろうと少年は勝手に解釈した。女はいつもの調子で喋った。
 暑い夏の昼間には幻想がよく見えたものよ。と。


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