一、夏の日の幻想 (1)


 夏は、季節の中で一番嫌い。
 まず第一に、着物が暑い。国民学校の制服は洋装のスカートで、都会的なところが気に入っていたのだけれど、家に帰っていつまでもそれを着ていると一番上の姉さんが酷く怒る。一着しかない大事な制服を水仕事で汚すんじゃない、と云う。だから仕方なく絣
(かすり)の着物に着替える。本当は出来るだけ長く、お洒落で風通しのいい洋服を着ていたかったのだが、五於(いつを)の洋服は学校の制服しかないため仕方が無い。
 次に、虫が多い。山の奥地の村なんだから当たり前のことなんだけれど、これがまた厄介な事象を引き起こす。五於の皮膚は藪蚊に刺されたときだけでなく、小さな羽虫や蟻に触っただけでも酷く腫れ上がるのだ。生まれ持った体質の所為だったが、隣の家の薬屋に云わすと虫の鱗粉や体液に免疫力を持てない身体なのだそうだ。兄弟の中で同じ体質の者は居なかったが、姉たちの話によると母が昔似たような症状を起こしていたらしい。農家の息子だった父が、地主の娘とはいえ次女である母の元に婿入りしている理由も、若しかしたらその特異な体質の為だったのかも知れない。
 他にも沢山、夏が嫌いな理由はあったが何より一番厭な理由。それは、太陽が高いこと。陽に肌が焼ける。肌が焼けると、五於の皮膚は猛烈な速さで火傷のように爛
(ただ)れ、それは醜く全身に広がった。
「五於は田舎暮らしにはトンと向いてない子だねぇ」
 一番上の姉・一子
(かずこ)は呆れたように度々云った。陽に当たれないから畑仕事は出来ない、夏場の虫に弱い、おまけに洋服が大好きで都会的なものを好む。体質は後から付いてきたものではないが、何となく趣味思考を否定するために後付けされたような気分になって、五於からするといい思いはしない。
「そんな醜い身体じゃ、嫁の貰い手も難しいだろうし」
 一子の物云いは、いちいち棘があった。
「重
(しげる)がおるじゃろう、」
「あんなの、死んだ父さんが昔お隣さんとしたただの戯れよ。本気にしとったら、重ちゃんが気の毒やわ」
「ほんなら、都会に出て手に職付けるしかないわなぁ」
「手に職ったって、うちに進学させるような余裕はもう残ってへん。学も無い女が街で就ける職なんか、売女
(ばいた)くらいしかあらへんわ」
 大人たちは五於の意思などまるで無視して好き勝手に話していた。醜い肌を持って強烈な劣等感を抱いているのは他ならぬ五於自身だ。しかし一子は決してそれを哀れんだり同情したりすることは無かった。むしろ、家の働き手にならない五於の居場所を追いやっているようにすら思えた。
 何でそんなことばっかり云うん。うちかて好きでこんな身体なったんちゃうわ。
 冬の日。皆で火鉢を囲んで白菜汁をつついていた時、五於はそう啖呵を切ったことがあった。
「そら姉さんには一生判らへんわ、キレイな肌してな。こんな厄介な皮膚持って生まれて来ぉへんかったんやもんなぁ」
 思わず茶碗を置いて立ち上がると、すぐさま左脚に菜箸が飛んできた。ちょうど、着物の袂
(たもと)の真下の皮膚に直接当たって、ジュウ、という小さな音がした。菜箸は、火鉢の中に入れていた炭火用の物だ。
「生意気云うんじゃないよ。行儀悪い、飯は静かに食いな」
 一子はこちらを見ようともしない。食卓は重い静けさが漂い、五於の脛
(すね)には見る間に紫の筋が浮かび上がった。
「五於っ」
 背中で、長兄・邦男
(くにお)の声が聞こえた。五於は母屋を飛び出していた。うっすらと雪の積もる表の坂道を、転げるように走った。火傷を負った左脚がズキズキと痛む。いつも学校や畑に出るときに必ず通っているこの坂が、酷く長く感じた。坂の途中、縺(もつ)れた足に躓(つまず)き雪の上に倒れこんだところで、走ってきた小さな兄弟が追いついた。五於の周りをうろうろし、火傷を負った左脚の傍に寄り添う。
「七郎」
 五於のすぐ下で末の弟、七郎
(しちろう)だった。口の利けない七郎は、何も云わずに五於を見上げるようにして見つめた後、左の脛に伸びた痣をちろっと舐める。そして、いつも彼女にしてもらっているように、自分の背中に五於を背負おうと身体の下に潜り込んだ。
「七郎、無理やよ。お前が潰れてまう」
 暫く此処に座っていたかったのだが、仕方ない。五於は立ち上がった。土と雪の冷たさで、痛みはそんなに感じなくなった気がした。
「もうちょっと、雪で冷やしとき」
 穏やかな声がして振り返ると、一間
(いっけん)ほど先に邦男が立っていた。
「あんな云い方しはるけど、姉さんはお前が憎くて云うてるんやないぞ」
 邦男は一子の代弁者だった。七人兄弟の一番上、病弱で大人しい母親しかいない宮崎家を実質的に支えているのは長子である一子だ。彼女は兄弟にとって父親のように厳しく恐い存在だった。云いっぱなしで、誰かを褒めるところなど一度も見たことが無い。邦男はそれを補うかのように、どんなことがあっても決して怒鳴るようなことはなかった。いつも一子に叱られた後にはこっそりと、穏やかな表情で優しい声を掛けに来る。
「お前のこと思って、わざと突き放してるんや。五於は、村で生きてくより街へ出た方が、楽に生きれるやろうからな」
 生まれ育ったこの村から出ること。幾度と無く聞いてきた言葉だったが、まだ自分の中で現実味を持った印象にはならなかった。ただ、こんなことがあった日には強烈に早くこの家から出たいと、そればかり思った。
 畑仕事に出られない五於は、水仕事をこなしていた。学校から帰宅し、着替えて一番にやることは、土間の隅に置かれた水瓶に水を溜めておくこと。飲み水としてだけでなく、料理や洗顔、手洗い、家畜にやる分を含め、七人家族の一日に使用する全ての水はここから補う。四尺近くある大きな水瓶をいっぱいにするには、村の中心部に掘った井戸から桶を担いで三往復はする必要があった。
 臙脂
(えんじ)の単衣(ひとえ)に着替え深緑の兵児(へこ)帯を片方(かたへ)に結んだ五於は、いつものように襷(たすき)を懐に入れて棹(さお)の両端に桶を結び、肩に担いだ。土間から一歩外に出ると、急速に汗が滲む。強い日差しに、蝉の声。時折吹く風に新緑が揺れて、土に映った影がさわさわと動く。村の中心に皆で掘り当てた井戸がある。小さな村ではあったが、面積だけは無駄に広い。井戸までは十五分程度だったが、それを三往復するとなればけっこうな重労働だ。暑い中、水の入った桶を担いで往復するのはきつい仕事だったが、水汲みは畑に出られない幼い子供がするものと相場が決まっていたため、五於のような国民学校も高等部に上がった年齢の子供がすることは稀だった。
 行きは桶の中身が空のため、軽快な足取りで坂を下り舗装された道路を歩いていると、何処かから七郎が走ってきて五於に飛びついた。長身の五於に比べて七郎はいつまで経っても小さな体躯のため、彼女の足元でちょこちょこと付いて廻っている印象になる。
「お前、姉ちゃんの帰りを待ってたフリして、ほんまは水浴びがしたいだけなんやろう」
 ぐりぐりと頭を小突くと、七郎は蔓延の笑みで五於を見上げた。図星のようだが、悪いと思っている様子は無い。
 井戸の水は夏は凍るように冷たくて、逆に冬は白湯
(さゆ)のように生温かった。地下の奥底を流れる水は、夏場には冬の雪解けが、冬場には夏に温められたものが山から下ってきているのだと誰かが云っていたが、本当のところは判らない。
 小さな丘の上。屋根の付いた石積みの井戸場に着くと、五於は早速腕に襷掛けをして袖を帯の端
(はじ)に挟んだ。ここは、ひんやりと涼しい。それは、冷たい井戸水が生み出した風の流れの所為かも知れないし、屋根で陰になっている所為かも知れない。石畳は日に当たれば焼けるように熱くなるものだが、ここのは陰になっているお陰でむしろ冷たく感じられた。
 いつも裸足の七郎はその石畳の冷たさにも満足し、井戸の周りを歩き廻った。カラカラと滑車を廻して汲み上げた水を、彼に向かって浴びせる。七郎はまた喜んではしゃいだ。
 棹の両端に括り付けた桶に均等に八分目まで水を汲むと、五於は肩に担いで立ち上がった。桶が少し揺れるが、零れはしない。これが適量なのだ。往復する回数を減らそうと一度に汲みすぎると、歩く振動で桶が揺れ、中身が少しずつ零れてしまい家に着く頃には殆ど残っていなかったりする。五於はこの失敗を何度も経験し、漸くこの適量に辿り着いた。歩き方や歩く速度を色々工夫してみたが、時間と往復する回数共に最も効率のいいやり方が今の量なのだ。
 少し後ろを付いてくる七郎の足音を聞きながら、五於は鼻歌を唄った。ラジオから流れてくる歌謡曲はどれも都会的な感じがしてすきだ。
 坂道を上りきり家に着くと、母が台所で青いグラスを出していた。母がこんな時間に家に居るなんて、珍しい。夕刻にはまだ早い。いつもならこの時間は畑に出ているはずなのに、と思いながら水瓶の蓋を開け、桶の水を注ぎ込む。
「母ちゃん、誰かお客さんでも来るん」
 奥に向かって聞いてみる。母は慌ただしく動き廻りながら、何云ってるのアンタは、と呆れたように返した。何のことだかさっぱり判らない。
 こちらもこんなところで油を売っている時間は無い。夕刻までにあと二往復しなければならないのだ。軽くなった棹を肩に掛け敷居を跨ぐと、庭先から誰かが歩いて来るのが見えた。この周りに家はここしかない為、当然うちに用があって来た事になる。
 白いシャツをきちんとグレーのスラックスの中に入れた、清潔な身形。あまり陽に焼けていない、白い肌。少し長めのさらさらの前髪。こんな都会的な恰好の青年は、この村では一人しか居ない。
 嘘。何で。頭の中が混乱する。今年春に、東京から赴任してきた英語教諭の木村だ。
 五於は慌てて自分の姿を見下ろした。赤っぽい絣の着物に、くたくたになった子供じみた兵児帯。見る間に顔が紅く染まっていくのを感じる。
「おぉ、宮崎。水汲みに行くのか」
 軒先で桶を担いだ五於を見付けた木村は軽く手を上げた。流れる汗を白いハンカチで拭いながら、右手で淡い桃色の広告文字が入った団扇を扇いでいる。
 五於はその場に桶を置くと、一目散に裏山に向かって走り出した。


<<back |  | next>>
さよならモンスター (C)2011 SAWAMURA YOHKO